2015年5月30日土曜日

【番外】TM NETWORK とはなにか? 〜 その1

今回は「TM NETWORK の重箱のスミ!」でもなければ
「TM NETWORK の重箱!」でもありません。完全な『番外』であります。
そのため一定の期間後は別の場所に移動させていただきます。




   はじめに


今回、自分としては書くべきか書かざるべきか、非常に迷いに迷いました。

…と書けば小泉洋氏インタビューをお読みいただいた方々には、何のことかお分りでしょう。
結局迷った末に一旦は『その件』に関わる部分を注意深く取り除き、
インタビューを再構成して皆様にお届けしました。
これは何よりも、御本人である小泉洋氏の意向を尊重させていただいたためです。

この件に関して小泉氏は一貫して
「いいんだよ、もう。今さらほじくり返してファンの人達の夢を壊しても仕方がない」
と仰っていました。

特に1985年の項(3回目のエントリー)はその部分の切り分けにかなり手間取り、
結果として少し散漫な出来になってしまったと感じています。
自分の構成力不足を恥じるとともに、お読みいただいた方々、
そしてなにより貴重な話を沢山語っていただいた小泉氏に申し訳なく思います。



ではなぜ、自分はそのように微妙な問題を今になってほじくり返そうとしてしているのか。



予告編でも宣言しましたが、あくまでこの企画の趣旨は暴露が目的ではありません。
初期制作体制の実態、および TM NETWORK の成り立ちを探ることが目的ですので、
音楽活動と関係のない個人的な軋轢は、今後も一切書くつもりはありません。



しかし、実際インタビューを行って痛切に思い知らされたのは、
小泉氏の御活躍とTMからの離脱はコインの裏表の様な面があり、
離脱の経緯がアンタッチャブルなままでは、
30周年どころかいつまで経っても小泉氏の御苦労、御活躍は表に出せない。

そして "小泉洋という視点” を Lost したままでは、
今に繋がる『TM NETWORK が誕生時に抱えた興味深い独自性』が、顧みられず
永遠に埋もれたままになるという理由です。



加えてもう一点。



インタビュー掲載後に気付いたのですが、読者の方々の中に
『小泉氏の離脱時期』と『TMがブレイクした時期』を重ねて捉えていらっしゃる方が多い。
端的に言ってしまえば、小泉氏を外したことによってTMはブレイク出来た、
と捉えている方が残念ながらいらっしゃるということ。

これは自分としては予想外のことで、
貴重な話を披露してくださった小泉氏に対し、申し訳がありません。
また小泉氏が離脱した翌年、1986年をブレイクと捉えてしまうと、
この時期の制作体制の変化や、幾つかの楽曲の立ち位置を見誤ることにもなるでしょう。




以上の理由で自分は、30周年というお祭り期間が過ぎ去るのを待ち、
小泉氏に再度連絡して交渉、強引に許可をいただいたうえで執筆に取り掛かりました。




再度断っておきますが、この件に関する小泉氏のスタンスは先に述べた通り
「今さらファンの夢を壊しても仕方がない」ということです。
この件は非常に微妙な問題を孕みますので、10人いれば10通りの真実があると思います。
本文はあくまでミツカワが小泉氏から伺った話をもとに様々な推測を交え、紡ぎ上げたもの。
いわば私感であります
ここに書く内容が唯一の答えとは捉えないでいただきたいと存じます。





原稿自体はすでに書き上がっているので、今後の流れを予告しておきます。
たいへん長文ですので、3回に分けることにしました。
これは慎重を期する内容が含まれる為、
読者の方にもじっくりと読んでいただきたいとの想いからです。



     はじめに
  1:スピード・ウェイとはなにか?
  2:デビュー直前での路線変更
     (今回分)

  3:ちぐはぐな頭と体
  4:外圧
     (2015年6月9日公開予定)

  5:隙間風
  6:TM NETWORK とはなにか?
  7:CHILDHOOD'S END
     おわりに
     (2015年6月下旬公開予定)





また今回は、サブテキストとして昨年30周年を記念して発行された
「小室哲哉ぴあ TM編」(以下:TMぴあ)を多く参照いたしました。

この本は当Blogで何度も申し上げているように、今まで語られてこなかった内容が
さらりと書かれている反面、記憶違いの発言や単純な誤植等も多く、
正直どこまで正面から受け止めていいやら悩む部分があります。



その中でも自分が初見の際、非常にひっかかりを覚えた発言を一点あげておきます。

 (小室氏による全曲解説 / アルバム「CHILDHOOD’S END」内「ACCIDENT」の項)
  ちょうど、このころ、同じレーベルで LOOK というグループの「シャイニン・オン
  君が哀しい」という曲が大ヒットしてまして、その水のあけられ感がめちゃくちゃ
  大きくて、何とかシングルヒットを出さねばって焦りがありました。



なぜそこまで具体的に憶えているのに、この30年間一度も話さなかったのか?
またその内容が真実であったとして、なぜ LOOK の「シャイニン・オン 君が哀しい」なのか?

失礼ながら当時の TM NETWORK を考えると、
追い抜いていった曲やバンドは、他にもたくさんあったはずです。
また音楽的にも、とても TM NETWORK が意識するような
(被るような)バンドとも思えません。
同じエピックソニーだったから?それだけなのでしょうか?

いまひとつ釈然としないながらも、編集側の付けた
『後輩に追い抜かれたから』という煽り文には説得力を感じず、
しかし他の理由も思いつかず、そのまま考えるのを保留していました。


この発言。
これからお読みいただく方にも、しばらく頭に留めておいていただければと存じます。








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1:スピード・ウェイとはなにか?


木根「(スピード・ウェイは)青春だったよね」
ウツ「そうですね、八王子のレッドツェペリンて感じだったしね」
木根「まああの、でも TM NETWORK のルーツだと俺は言うんだけど、
   小室は違うって言うんだよ。これだけは彼とはどうしても意見が合わないんだよ」
ウツ「なるほどね」
木根「彼もいた時あったからね」
ウツ「そうですね」
木根「最後、後期にね」
ウツ「うん」


これは1996年、スピード・ウェイ 一夜限りの再結成ライブにて出た発言だそうです。(注)

いつものごとく面白おかしく話されていたようですが、
自分としては、これこそ TM NETWORK が結成当初から抱えている、
根が深く、また他のバンドにはあまり見られない構造上の問題点であると思います。





TM NETWORK のファンであれば、TM経由で遡ってスピード・ウェイを聴いた
という方は多いでしょう。

しかし、特に 1st album「THE ESTHER」については
その音楽性の違い、ビジュアルの違いにかなり驚かれたのではないでしょうか。
煽り文句も「かつて TM NETWORK のメンバーが “在籍した” バンド」という、
なんとも微妙な物言いでありました。




つまりスピード・ウェイと TM NETWORK はスタッフも含め、
人脈としては繋がっているものの、音楽性は繋がっていない
という珍しい関係にあるわけです。




音楽性という意味では、
むしろ同時期に小室氏がやっていた STAY の方が、まだ “らしい” でしょう。
STAY の楽曲には、TMのレコードやライブで聴かれるフレーズが
ちょくちょく顔を出します。

特に 3rd album「GORILLA」におけるダンスミュージック路線は
STAY での活動がベースとなっていることは明らかです。

同時期、木根・宇都宮・両氏ともに
『昔、小室がそういう(ディスコサウンドの)バンドをやってたのも知ってたから
「ああ、ついにきたか」と思った』と発言しています。

と同時に2人にはダンスミュージックの経験が無く、
その路線に不安を感じた、とも語っています。





しかし、じゃあ STAY が TM NETWORK の前身バンドか?というと、それもまた違います。
なにより STAY はコンピューターサウンドではありません。

この複雑骨折したような構造が、先のMCにおける
小室・木根・両氏のスピード・ウェイに対する評価(位置付け)の違いになるわけです。





また同MC内で木根氏が小室氏を指して『最後の方』『一時期いた』と述べているように、
木根氏・宇都宮氏にとってスピード・ウェイは、その前身バンドのフリースペースから、
さらには学生時代からつながるルーツではあるものの、
小室氏にとっては一時期、助っ人として所属したバンドでしかないわけです。

ところが TM NETWORK 以降、
スピード・ウェイのみが、前身バンドとして脚光が当たります。
そのためファンの間でも スピード・ウェイこそ TM NETWORK の前身バンドである、
という認識が広まってしまいました。

これは彼らの前歴に、形としてしっかり残っているメジャー作品が少ない、
ということもあるでしょう。

しかし、のちに触れますが
『TM NETWORK の前身はスピード・ウェイであってほしい』と望む人達がいた
という側面もあったようです。




確認しておきますが、これは決して嘘でも間違いでもありません。




ただ一般に “前身バンド” とは、本来一番キモとなる『音楽性』を指すものですが、
スピード・ウェイ はそうではない。
ここでいう "前身バンド” とは、あくまでスタッフも含めた『人脈』のことを指している。

これを念頭に以降の話をお読みください。




(注)ところが昨年(2014年)出た「震・電気じかけの予言者たち」の中で木根氏は
   「小室が作ったバンドに僕とウツが加入したのが TM NETWORK」と、
   今までとは180度異なった見解を記しています。
   これがいつ、なぜ、このように考えを改めたのか、非常に気になるところです。







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2:デビュー直前での路線変更


これはあくまで状況証拠からによる推測に過ぎませんが、
1983年春に小室氏が他の2人と『T.M.ネットワーク』を結成した時点で思い描いていた音と、
同年10月にデビューアルバムのレコーディングを始めたときの音には
微妙な差異があるように思われます。


小室氏の趣向を考えると「打ち込み」に関する入り口は、Kraftwerk 的なテクノ(注)よりも
70年代後期~80年代初頭、ディスコを席捲した
Giorgio Moroder プロデュース作品などでしょう。

   (注)もっともまだ「打ち込みというジャンル」など存在しない時代、
      Kraftwerk はプログレの一種として紹介されていた。
      当時の小室氏がどう反応したか興味深い。

これをミニマルなフレーズを繰り返す新たなポップサウンドと捉えれば、
CM仕事や「TMN GROOVE GEAR」収録の「ANY TIME」で聴けるような、
リズムマシンの上に手弾きシンセの多重録音+アクセント程度のシーケンス音といった、
当時の小室氏の技術、所有機材でも手の届く範囲のサウンドであります。


小室氏がのちにデビューアルバムを指して
「Trevor Horn を目指したが、うまくいかなかった」と語っていますが、
その参考にしたはずのアルバム「The Age Of Plastic」のメインになっているのは
打ち込みよりも、Geoffrey Downes による手弾きのシンセ・オーケストレーションです。

また、TM以前に小室氏が手がけた Missオレンジ・ショック の「ア・イ・タ・イ TEL」は
この「The Age Of Plastic」の "サウンド・コピー” ともいうべき仕上がりであり、
さらに言うなら「ANY TIME」にいたっては、サビのメロディー・コード進行まで
同アルバム収録の「Elstree / 思い出のエルストリー」にそっくりです。








           自分は、このあたりが小室氏の想定した
       『T.M.ネットワーク』の原初イメージではないかと考えます。




リズムマシンと廉価なシンセ+アコースティックギターだけで作ったという
「1974」の初期デモテープ。
また、デビュー前のフレッシュサウンズコンテストでの演奏からも、そう感じます。

このサウンドなら鍵盤奏者である木根氏とのコンビでも、無理なく対応できたでしょう。





もうひとつ「打ち込み」への動機として考えられるのは、意外と音楽そのものではなく、
ドラム・ベースを打ち込みにすることによって、
意思決定に時間のかかる『バンド』編成から脱却したかったからとも考えられます。

人間では表現できないサウンドを打ち込みによって表現する、
というテクノ的な考え方ではなく、
『リズム隊のパートタイマー化』といった感覚でしょうか。

つまり小室氏+木根氏+αという編成を成り立たせる為の
"手段としての打ち込み” というわけです。

どちらにしてもこの時点では、積極的に打ち込みを中心に据えていたというよりは、
もっと副次的なものだった可能性があります。

また小泉氏もフレッシュサウンズコンテストには地方大会の時点から参加していたものの、
この時の「1974」に打ち込みは入っておらず、
氏の役割はあくまで手弾きのサポートキーボーディストとしてでありました。





しかし、詳細な時期は不明ながら1983年夏頃、インタビューにあったように、
小室氏は小泉氏から『パソコンとMIDIによる楽曲制作』のレクチャーを受けます。

これが小室氏からの依頼なのか、小泉氏が持ちかけた話なのか、
はたまた小泉氏の家で遊んでいた時に偶発的に起こったことなのか、
非常に興味あるところです。

というのも後述するように、これによって
(打ち込みやシンセといった表層的な部分ではなく)本人達もあずかり知らぬところで、
TM NETWORK のアイデンティティーが規定『されてしまった』と考えられるからです。



このレクチャーを経て、小室氏は小泉氏に
パソコンおよびシンセサイザーのマニュピレートを正式に依頼。
小泉氏はメンバーと一体となって TM NETWORK に没頭することになります。

この選択は小室氏にとっては、恐らく今までの路線の延長線上。
更にパソコンというビジュアル的なインパクトも加わることによって、
レコード会社や世間への『駄目押しアピール』になる、という程度の認識だったのでしょう。

確かにこれによって、サウンド的には我々の知る TM NETWORK に一気に近づきます。











         『TM NETWORK とはなにか? 〜 その1』終わり


                続けてこちらへどうぞ。
           『TM NETWORK とはなにか? 〜 その2』







2015年4月20日月曜日

人か機械か?!渋谷デビューの凄い奴!

ミツカワです。

前回までの豪華絢爛な重箱企画を終えて、
恥ずかしながら、重箱のスミっこに還ってまいりました。
いや~やっぱりホっとするね、スミっこは(笑)

昨年11月からずーっと小泉洋氏インタビューにかかりっきりだったせいで、
本来の『重箱のスミ!』って、どんなブログだったか忘れかけてましたが、
今回からまた、のんびりしょんぼりやってまいりますので、
皆様、どうぞよろしくお願いいたします。





あ、ひとつ御報告を。

3月21日・22日に行われた横浜アリーナでのコンサート。
ここで演奏された「Here, There & Everywhere」は2日間とも
♫ ~ 涙にくれた出来事 “さ” と歌われておりました。

なんのことか分らない方はこちらのエントリー (小ネタ No.03-3) をお読みください。

まあ、こちらの方が歌いやすいとは思うのですが、
これで歌詞カード準拠になったと思いきや、
先のエントリーにコメントを寄せてくださった adem さんによると、
近年発売された Blu-spec CD の歌詞カードでは “さえ” となっているそうです。

うーむ。出会えない 二人のrelation とはこのことか…。






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というわけで( ← 強引な導入)今年初の「重箱のスミ!」のテーマは、
[幻のデビューライブにおける
      ドラムサウンドの謎に迫る!]





…ほーら、みんな置いてきぼりだ…。





デビューライブ自体が公式記録から抹消されており(注)よく分らないのに、
さらにドラムサウンドがどうこう言われても…
と 困惑される方々 の顔が容易に目に浮かぶ。


ドラムサウンドの謎とは?については、
以前、こちらのエントリー (小ネタ No.01-2) に書いた。
ここに書いた長年のモヤモヤがあっさり解消されたよ!というのが今回のエントリーだ。

詳細については元エントリーを読んでいただきたいが、
ここでは再度、その疑問点を簡単にまとめておく。


 (注)ところが昨年発行された「小室哲哉ぴあ TM編」の "CONCERT HISTORY" には、
    "DEBUT CONCERT” として、しれっと記載されている。
    30年も経って、いまさら公式化されたのだろうか?
    前回チラリと触れたが、その他にもの本には端々に気になる記載がある。
    しかし誤植も非常に多かったため、どこまで真剣に突っ込むべきか迷うところだ。






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まず『TM NETWORK 幻のデビューライブ』とは、次のライブハウス3公演を指す。

1984年6月18日 東京 渋谷 LIVE INN
    7月17日 大阪 梅田バナナホール
    7月31日 東京 渋谷 LIVE INN

今回のテーマはこの3公演中、最初の『6月18日 渋谷 LIVE INN』でのドラムが、
生演奏だったのか?それとも打ち込みだったのか?というものだ。




ライブ直前、リハーサル合宿時点でのインタビューで小室哲哉は
"ドラムを打ち込みでやるため” の仕込みで今、おおわらわだと述べていた。

                ↓

だが少なくとも、7月の 梅田バナナホール公演 は阿部薫による生ドラムだった。

                ↓

結局、打ち込みの話は本番直前に無くなったのかと思いきや、
小室哲哉は、翌85年の平山雄一との対談内でも
『初めてのライブは打ち込みドラムでやった』と話している。
(この "初めてのライブ” というのが「パルコライブ」のことを指しているのか?
 とも疑ったのだが、前後の文脈からすると、
 やはり84年6月のデビューライブを指しているようだ)

                ↓

ではやはり、6月の渋谷 LIVE INN だけは打ち込みのドラムだったのか?

                ↓

だがしかし木根尚登はその著書にて、この渋谷公演は 高杉登 が叩いていたと書いている。

                ↓

            訳☆ワカメ☆



というわけである。







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【お詫び】今回のエントリーは画像が重要な資料なのにもかかわらず、
     我が家のスキャナーが息を引き取られた為、
     一部、本などを直接カメラ撮影した画像となります。
     そのため見辛い画像もございますが、ご了承ください。



まず本題に入る前に、こちらの写真を見ていただこう。

これは木根尚登の著書「真・電気じかけの預言者たち -眺望篇-」に掲載された
デビューライブの写真である。(黄色の[A][B][C]はミツカワが付けました)

































今回の主題であるドラムとは関係がないが、
このデビューライブ、意外と様々な資料が残されているようだ。

例えばであるが、この写真中 [A]と[B][C]はそれぞれ 別の日付の公演 である。
ご覧の通り小室哲哉の髪型、服装が全然違う。

キャプションには『どこの公演かは不明』とあるが、
他の資料と突合した結果、[A]に関しては 6月18日の渋谷 LIVE INN で間違いない。
























      (6月の渋谷 LIVE INN では小室哲哉の髪型が大惨事となっている)





また別の観点からみても、[C]は7月の2公演のどちらかに間違いない。
この『別の観点』というのが今回の主題である。


このように、複数の公演で記録が行われ、
さらに6月の渋谷 LIVE INN にはビデオカメラも入っていたようで、
『デビューライブ』としての気合い が伝わってくる。

つまり現在でも様々な資料が埋もれている可能性があるわけだ。
ワンパターンになるので、
これ以上は言わないが…。








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さて本題だ。


前回までの小泉洋氏インタビューを行った際、
当然、このライブの詳細についてもお聞きしたのだが、
残念ながら氏の記憶は定かでなく、具体的なヒントは得られなかった。

ただ、3公演の内容(機材やシステム)が同じではなかったのではないか?
というミツカワの仮説に対しては、
「パルコライブまではライブをやるたびに試行錯誤を繰り返しており、
 同じではなかった可能性は十分にある」
と話していただいた。



その後はインタビュー記事の作成に追われ、この件については忘れていたのだが、
ところがこのインタビュー、別の意味で大きなヒントが得られたのだ。






          それは 言葉の定義付け である。






ちょっと、おさらいしてみよう。

例えば小泉洋氏インタビューを行うまでは、
「コンピューターを使ったライブは世界初かも」という、
当時の小室発言は何を言っているのか、よく分からなかった。


1984年の時点で「コンピューターを使ったライブ」はとっくに一般化していたからだ。


しかし、当時のインタビュー等に出てくる『コンピューター』という単語には、
『音楽専用コンピューター』(シーケンサー)と、
『一般的なパソコン』が混在している
ということに気付くと、一気に理解が進む。


1984年の時点で一般化していたのは
音楽専用コンピューター(シーケンサー)を使ったライブであり、
小室哲哉の言う「コンピューター」というのは「パソコン」を指していた。

つまりその発言の本意は「パソコンを使ったライブは世界初かも」ということだったのだ。
そうであれば実際に世界初だったかは分らないが、かなり早かったのは間違いない。




この経験から、今回の主題である『ドラム』あるいは『ドラマー』という言葉についても、
そもそもそれが何を指しているのか?
という部分に立ち返って、考えてみようと思ったのだ。








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一般に『ドラム』と聞いて浮かぶイメージはこんな感じだろう。

































              …いや、これはこれで特殊か…。
                   やりなおし。








一般に『ドラム』と聞いて浮かぶイメージはこんな感じだろう。































ところがだ。
ちょうどこのデビューライブが行われた頃のTV出演、あるいは「1974」のPVを見てみよう。































































お分かりだろうか?
そう、立ってプレイするスタイル なのだ!







上の画像では、どちらもカラオケ演奏だったが、
実際のライブでもこのようなスタイルで行われたという仮説は成り立つだろう。

現代からすると珍妙にも見えるが、1980年代初頭においては
最先端のスタイル演出として、わりと洋楽のPVやライブなどで見られた。























                Howard Jones のライブ























                  YMOの散開ライブ

  (なお、後ろのドラマー David Palmer は、TM作品「CAROL」への参加も有名だが、
   90年代からは長年に渡り、宇都宮隆のフェイバリット・アーティスト Rod Stewart の
   アルバム、及びツアーに参加。コンポーザーとしてもクレジットされている)









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と、ここまでたどり着いた2日後、
インタビュー記事の補足資料として今更ながらに購入した
2012年夏のキーボードマガジンが届いた。

この号には非常に小さいながら、デビューライブの写真が掲載されている。
その中の1枚を見た瞬間、仮説は確信へと変わった。

それがこの写真である。








元が非常に小さいうえ、暗くて潰れている部分もあるので判りにくいかもしれない。
ただそれが 通常のドラムセットではない ことは判るだろう。

大幅に機材が増強されているものの、
これは「1974」のビデオクリップなどに見られた、
立ってプレイするタイプのセットに見える。



ただ、足元にバスドラムのように見える物も写っていて、
これだけでその日のプレイスタイルを断定するには心許ないのも事実だ。


そこで一旦、インタビュー記事の作成から離れ、
知るかぎりの全てのデビューライブの写真を見つめ直すこととした。
(こんなことしてるからインタビュー記事が
   遅々として進まなかったのだ)







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その結果、ついに 決定的な写真 を見つけた。
これはTMN終了時のデーター本「TMN FINAL 4001」 に掲載された写真である。





















はっきりとしない写真であるが、後列の2人に注目していただきたい。

左側(水色の矢印)は小泉洋であり、右側(緑の矢印)がドラムセットの位置である。
そこにいる人物のシルエットに注目してみよう。

通常のドラムキットに座っていれば、
このような頭の高さ、および姿勢にはならない
つまり 立ってプレイしているのは間違いない。



謎は完全に解けた。







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まとめよう。


1984年6月18日 渋谷 LIVE INN でのドラムは、
打ち込みと生演奏の混合 だった。

具体的に言えば、バスドラムやハイハット(ひょっとするとスネアも?)など、
基本のパターンは打ち込み(パソコン)で流し、
その上に上記写真のようなセットを使って人間がおかず(装飾的なフレーズ)を入れる
というスタイルだったと思われる。

また、ティンバレスもセッティングされているように見えるので、
曲によってはパーカッションがメインだったのだろう。
(その場合、ドラムの打ち込み度はさらに高くなる)



これなら最初の小室哲哉、木根尚登の発言とも矛盾しない。



しかし何らかの理由で望み通りの成果が得られず(注)
7月の公演では通常のドラムセットを組み、
ドラマーが全て生演奏するというスタイルに変更したのだろう。

  (注)当時の雑誌に掲載されたライブレポートでも、
     本番中なにがしかのトラブルが起こった事がほのめかされていた。



たった2カ所、3公演なのに
ドラマーが毎回違うのも、この急なシステムの変更が理由と考えられる。



ひょっとすると、1回目の 渋谷 LIVE INN と 梅田バナナホール の間が
1ヶ月も空いているのも、当初のスケジュール通りではなかったのかもしれない。

となると、7月31日の 渋谷 LIVE INN については
当時のチラシでは『追加公演』ということになっているが、
リベンジ公演という側面もあったのだろうか…。








また、これによって6月の公演と7月の2公演では、
出音から受ける印象も、
かなり異なったのは想像に難くない。


さらに、よくコメントをいただく GAUZE さんから教えていただいたのだが、
曲順も一部変更があった可能性があり、
この3公演を「デビューライブ」の名の下に一括りにしてしまうと、
見えなくなってしまう部分もあるようだ。







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さてドラムの件が一段落ついたところで、最初の写真をもう一度見てみよう。
























舞台中央に通常のドラムセットがセッティングされているのがはっきりわかる。
当然、ドラマーも座って叩いている。
この時点で6月の 渋谷 LIVE-INN とは違うことがわかるだろう。



では7月の公演なのは間違いないとして、
梅田バナナホール公演だろうか? 2度目の 渋谷 LIVE-INN 公演だろうか?

ミツカワとしては
・ドラムのセッティングされた台の高さ
・天井に吊られた照明の高さ
などが特徴的だと感じ、様々なアーティストの同所公演資料と見比べたのだが、
残念ながら現時点では断定出来なかった。








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ここからは 6月公演と7月公演の違い を、
ドラム以外の観点から、現時点で分ることをまとめておく。


冒頭では多くの写真が出回っていると書いたが、
にもかかわらず検証が困難な理由は次の2点だ。

・人物のアップが大半で、ステージ全体をとらえたものが少ない
 (あっても真っ暗な状態が多い)
・ライブ後半の写真に偏っている。(宇都宮隆の衣装で判断)







まず 宇都宮隆の衣装 であるが、前提として、
デビュー間もないこの時期のライブハウスツアーレベルで、
ワンステージに何度も衣装替えをしたとは考えにくい
せいぜい前半に羽織っていたジャケットを、後半脱ぐ位だと思われる。


その上で次の2枚を見てみよう。
6月の 渋谷 LIVE-INN では写真右側の様に青いジャケットを羽織っている
これは「1974」のPV(下の画像)で着ているものと同じようだ。

ポイントは袖口から白いシャツが見えていること。
つまりこのジャケットを脱ぐと、左側の袖のある白いシャツが現れる。

















































次にこちらの写真。

7月のライブでは黒い(ように見える)ジャケットを着ている。
この衣装は先の「電気じかけの預言者」掲載写真[B][C]と同じであり、
他にも何種類か目にすることが出来るが、
どれも袖口からシャツが見えない。
よってこのジャケットを脱いだ場合は、右側のノースリーブシャツが現れると思われる。



















     (いくら中がノースリーブとはいえ、
      この季節にこんなジャケットを羽織って暑くなかったのだろうか?)











次は肝心の音に関して。

ドラムと並んで、もう一つポイントになりそうなのが
アコースティックピアノだ。

公式には TM NETWORK のライブでアコースティックピアノが使用されたのは、
1987年の「Kiss Japan Tour」が最初ということになっている。

(追記訂正:2015年4月21日)
よく考えたら同年6月の武道館公演が最初でした。

しかし先のキーボードマガジンによると、6月の 渋谷 LIVE-INN では
小泉ブースの奥にアコースティックピアノが設置してあり、
小室哲哉がこれを弾いたとの記述がある。

しかし当時の TM NETWORK の規模で、
アコースティックピアノを持ち運んだとは考えづらく、
これは会場備え付けのものだった可能性が高い。


となると梅田バナナハウスでは使用出来なかったと思われ、
これも聴いた印象はかなり違ったはずである。









最後にもう一つ注目すべきがこの写真だ。
小室ブースの後ろ(写真左端)に小泉ブースがセッティングされているように見える。
























これは6月の 渋谷 LIVE-INN とは上下(かみしも)が逆で、またもし仮に最初にあげた
「電気じかけの預言者」掲載写真の下手側にあるのが小泉ブースだとすると、
それとも逆になる。
(その場合、3公演すべての写真が世に出回っていることになる)

これは公演違いを見分ける大きなヒントとなるはずだが、
いかんせん比較する他の写真が無いため、今の段階ではここ止まりだ。

ただ、今後新しい資料が出て来た場合の足がかりにはなると思う。








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いかがでしたでしょうか?

すっかりご無沙汰で手探り状態の執筆でしたが、
『 TM NETWORK の重箱のスミ!』って
 こんな感じでよかったでしょうか?
         ( ↑ まさかの問いかけ)


とにかく30周年をもってしても表に出てこなかったデビューライブの細部が、
ほんの少しですが垣間見えたエントリーでした。





さて次回ですが、ブランクの空いた間に溜まった小ネタの放出となる予定です。
おたのしみに!



んじゃ、また。










  ・
  ・
  ・
  ・
  ・

あ、そうそう。

今回のエントリータイトル。分る人には光の速さでバレてるでしょうが、
 ↓ こいつの第1話サブタイトル「人か獣か?!密林から来た凄い奴!」をもじっています。















だかしかし!単なる趣味に走ったわけではない!!

これは 仮面ライダーアマゾン = 1974年 = TM NETWORK
という、練りに練った含蓄のあるエントリータイトルだったのだ!

  ・
  ・
  ・
  ・
  ・

 まあ、嘘なんですが…。
    単なる偶然なんですが…。

ただ、自分がアマゾンに興奮していた時代を思い起こすと、
1974年て、むちゃくちゃ昔ですな。



…まあ、今でも興奮してるんですが…。








2015年3月15日日曜日

30th特別企画【小泉洋氏インタビュー】を終えて



本文でも語っていますが今回採り上げた「CHILDHOOD'S END」は、
ミツカワにとっての Favorite Album であります。
それゆえに、このアルバムだけでしか味わえない雰囲気の正体はなんだろうと
長年考えていました。

今回、その疑問に対し小泉氏は明確な答えをくださいました。
音の "色艶” です。

確かにサードアルバム以降のTMは、色気や艶といった部分はブラスセクションや
サックスソロなどの生楽器に割り当て、シンセはむしろ正反対の無機質で
立ち上がりの早い機械的な音を前に出すようになっていきます。




これはターゲットが定まっていなかったということと表裏一体かもしれませんが、
セカンドは他のアルバムに比べ、歌詞だけでなく
サウンド自体の対象とする年齢が少し高めのような気がします。

だとすると、その要因の1つは小泉氏の存在だったのではと感じました。

また、ファーストアルバムとも異なるこのアルバムの雰囲気から、
当時のミツカワは TM NETWORK = シティーポップス と認識していました。

これは木根、宇都宮両氏にとってもスピード・ウェイの資産を生かせる、
TM NETWORKとしては珍しく、企画先行ではない(これについては後で述べます)
むしろ自然体に近い "居心地の良い" 作風だったのではないでしょうか。




小泉氏の話からは離れますが、ミツカワは以前、
セミプロ時代の小室氏とバンド仲間だった方と同席させていただく機会がありました。

この方のお話では、ある時小室氏が誰に言うでもなくボソッと
「角松くんにはしてやられたよなあ…」とつぶやいたことがあったそうです。

はじめはセミプロ時代、バックバンドの仕事に関しての話だと思い、
気に留めていなかったのですが、どうも頭に残り、
後からその発言時期を確かめてみると、セカンドアルバムの頃だとのこと。

つまりファーストアルバムにおけるファンタジックなエレクトリックポップス路線が
空振りに終わり、行き先に迷っていた小室氏としては
シティーポップス路線も視野に入れていた、ということでしょう。
しかしその席にはすでに角松敏生や村田和人などが座っていた…。
そこから出た発言だと思われます。



そう考えると本人にとっては不本意かもしれませんが、
TM NETWORK の作品の中でセカンドアルバムは(結果的に)唯一、
"プロデューサー・小室哲哉" ではなく、
"アーティスト・小室哲哉" の存在が表に来ている作品ではないでしょうか。

常に「普遍的なものより、その瞬間・時代を切り取る音を作りたい」と言い続けている
小室氏が、セカンド発売時のみ
「今すぐ売れなくても、末永く評価されるエバーグリーンな作品になっているはず」
と語っていたのが象徴的です。
















































♫ Twinkle Night ~魔物たちの夜


さて小泉氏はご自分の作り出す音を、色気や艶と表現されましたが、
ミツカワはもう1つ感じるものがあります。

それは “魔性" です。

特にミニアルバム「Twinkle Night」は元々、映画「吸血鬼ハンターD」からの
派生商品という側面があり(注)この作品でしか味わえない独特の雰囲気を携えています。

 (注)「吸血鬼ハンターD」発表当時、小室哲哉は
    『ここから3つの流れ(サントラ・シングル・イメージアルバム)ができる』と発言。
    このイメージアルバムの企画が、その後「Twinkle Night」になっていったようです。




特に「Electric Prophet」における最初の1小節。

たった1小節で聴く者をどこか異世界へ引きずり込む “鬼気迫る" 何かを感じます。
これ以降の曲を考えても、この1小節に匹敵するような「引きずり込む」曲はあまり
見当たりません。「A Day In The Girl's Life」「Beyond The Time」くらいでしょうか?
ただその2つも “魔性" とはまた違うと感じます。

そういう意味で「Electric Prophet」は曲自体はTM NETWORKの代表曲ですが、
その音色や音の組み立てはむしろ異色作ではないでしょうか。
発売当時、ライブでの素朴なフォークロック調のアレンジに慣れ親しんでいたファンから
拒否反応が出たのもこの辺だと思われます。

セカンドアルバムにおける音色も、既に魔性を感じさせるものがあります。
「愛をそのままに」での木根氏の不安は、その匂いを嗅ぎとってしまった故かもしれません。



歌詞、メロディー、アレンジではなく、
『音色』そのものに主張・世界感があるとも言えるでしょう。



小泉氏はシンセサイザーオペレーターという職業の特異性について
「機械的な知識だけでは出来ないし、アーティストとしてのイマジネーションだけでもダメ。
 両方が無いと出来ない」とおっしゃっていました。

たった1年でシンセサイザーという電子楽器から、
この色気・艶・魔性とも言える音色を生み出すに至ったこの時期の小泉氏をみると、
技術面は1年のキャリアでも、アマチュア時代からの音楽活動によって磨かれた
アーティストとしてのイマジネーションが、その成長を大きく促したのだと感じます。




結局このミニアルバムが TM NETWORK における小泉氏最後の作品となるわけですが、
この作品はたった4曲しか収録されていないにも関わらず、
その完成度は当時から非常に評価が高く、シングル「Your Song」と合わせ、
第一期 TM NETWORK の総決算と呼べるでしょう。

アルバム製作にあたってのヨーロッパ旅行から始まり、
セカンドアルバム ~ ツアー ~ ミニアルバム と
小泉氏が最後の最後まで手を抜かず、全力投球されていたことが伝わってきます。



















































♫ あとがき ~金色の夢の肌触り~


昨年末から3回にわたってお送りした
『30周年特別企画・小泉洋氏インタビュー』いかがでしたでしょうか。

手前味噌になりますが30周年を迎えた時、僕が期待したのが
この様な内容のインタビューでした。
まずは一区切りつけることができて、ほっとしています。

全3回、それぞれ
・小泉、小室両氏の出会いから、当時のバンドマン達の熱い思いと焦燥感。
・ファーストにおける悪戦苦闘
・セカンドでのこだわり、ツアーでのフル回転。

『小泉洋』と言う新たな切り口を与えていただいたことで、
今までとは違う TM NETWORK の側面が見えてきました。





ここではこのインタビューを行うに至った自分なりの動機・経緯など、
最後にちょっとだけ僕自身の気持ちを書かせてください。






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インタビュー当日の別れ際、小泉氏はすまなそうに
「たいしたこと話せなくてごめんね」とおっしゃいました。


しかしその小泉氏にとっての「大したことのない話」。
ミツカワは文章化している際、あまりにも自分の発言が「えええ!?」とか「へー」ばかりで
我ながら「バカみたいじゃん、俺…」と思ったほどです。まあバカなんですが。

お読みいただいた皆さんはいかがだったでしょう?
皆さんも、きっと「えええ!?」とか「へー」の連続だったのではないでしょうか。


特にデビューアルバム「RAINBOW RAINBOW」における、
1983年晩秋のレコーディングスタジオにパソコンを持ち込んでの試行錯誤。
あの時代にシーケンサーではなくパソコンでアルバム制作が行われたということは、
これが日本初だったかは今となっては定かではありませんが、
『第一陣』に含まれていたことは間違いなく、
TM NETWORK という枠を越えて、語り継がれるべきことであると考えます。


なのに、なぜこんなに基本的かつ重要な話が今まで公になされていないのでしょうか?


しかも他のアーティストと違いTMの場合、
ただ "早くから行われていた" というだけではありません。

もしこれがうまくいかなければ、80年代一世を風靡する
『TM NETWORK =パソコンを駆使したハイテク・グループ』
というイメージ戦略が成り立たなかった可能性すらあります。
それほど当時、パソコンはインカムと並ぶ TM NETWORK のアイコンでした。






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正直に言って今回のインタビューを行うにあたっては、
自分の中でかなりの葛藤がありました。


というのもこのBlog「TM NETWORK の重箱のスミ!」のコンセプトは
対象者と適切な距離をおき『本人に聞かない』『公式を疑う』というものだからです。

誰もが簡単に(それが本当かはともかく)答えにアクセス出来る時代において、
客観的な資料を元に、自分の頭で推理・妄想するという
『過程を楽しむ』ことこそが自分にとっての譲れない柱でした。

つまり「TM NETWORK の重箱のスミ!」において、重要なのは
「TM NETWORK」ではなく「重箱のスミ!」なのです。
(実際このBlogを立ち上げる2週間前までは
 「東映ヒーロー/監督・脚本家列伝」という内容を予定していました)

これが、このインタビュー企画時のみ
「TM NETWORK の重箱!!」とタイトルを変更した真の理由でもあります。




ではなぜ、禁じ手中の禁じ手である『直接インタビュー』を決意したのか。




この一連のインタビューは昨年の11月初旬に行ったものですが、
実は小泉氏との連絡は昨年春の時点でとれていました。
しかしこのような事情でしたので、直接お話を伺うという考えはありませんでした。

一連のインタビューをお読みいただいた皆様であれば納得いただけると思うのですが、
小泉洋というキーマン抜きで 初期 TM NETWORK の実態を掴むことはできません。
ですので30周年という大きな節目とあれば、さすがに公のインタビューが行われるであろう。
その前に自分がしゃしゃり出て、読者の方が受ける新鮮な驚きに
水をさしてはいけないと考え、ご挨拶程度にとどめておきました。


つまり30周年スタートの時点では、かなり楽観的に考えていたわけです。


ところがいつまでたっても、その様子が伺えません。
そのままズルズルと時が過ぎ、秋も深まる中発売された「小室哲哉ぴあ TK編」のページを
めくって失望・落胆した自分は、結局それを購入せず棚に戻しました。
(これは一連のインタビューラッシュの中で、この本の発売が
 当年終わりの方だったというだけであり、「ぴあ」だからという意味ではありません)




この30周年という大きな区切りをもってしても、小泉氏は公に現れないのか。






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いや、現れないだけならともかく、
何よりTMのメンバーが不自然なほど、誰1人語ろうとしません。


"BEE" presents TM VISION(vol.1)より変な日本語






























ただ注意して見ていると、その影は感じとれます。

しかし、例えば秋に出たキーボードマガジンのインタビュー中
「RAINBOW RAINBOW」について木根氏が
『マニピュレーターが普通の人たちでは買えないような良いシンセサイザーを
 いっぱい持っていたので、それを使って作った』と話していますが、
実態は小泉氏インタビューの通り、『持っていた』のではなく
『その時点では素人同然の者が私財を投じて購入しつづけていた』わけです。

木根氏の発言から受ける印象とは、かなりの隔たりがあります。




自分が先に書いた『本人に聞かない』『公式を疑う』という
コンセプトをとった理由のひとつは、まさにこういうことがあるからです。

背景を知らずに言葉だけ抜き出しても、どうとでもとれてしまう。
なにより怖いのは、その結果なんとなく分かったような気になって、
それ以上考えなくなってしまうことです。
(個人的に「小室哲哉ぴあ TM編」はその手の発言の宝庫でした)






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さらにショックだったのは『小泉氏に触れない TM NETWORK』について、
ファンが違和感を抱かないということです。

それどころか小泉洋という名前を知らない。
知っていても "初期のサポートメンバー" 程度の認識でしかない。

もっともこれはファンに責任はありません。
ある時期より小泉氏の存在は、TM NETWORK の歴史から消されてきたからです。
これは小泉氏のインタビューが存在しないとか、
メンバーが言及しないだけの話ではありません。



お持ちの方は確認していただきたいのですが、PARCOライブが収録された
TM NETWORK 初の映像作品「VISION FESTIVAL」のインナーには
ヘアメイク担当者などのクレジットまできちんとされているのに、
あれだけ深く関わられ、なおかつ映像にも写っている小泉氏がクレジットされていません。




























つまり小泉氏が TM NETWORK を離れる以前から、すでにこの流れはあったわけです。
(「VISION FESTIVAL」発売 1985年8月)




予告編でミツカワは『ここまで表に現れないという事は、
そこに何かしらの事情があるという事は推測できる』と書きましたが、
これは相当、根が深い問題であると今更ながらに思い知りました。






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しかしその『事情』を暴き立てるのが、このBlogの目的ではありません。

今回、僕が行ったインタビューの目的は、
・小泉洋は単なるサポートメンバーではなかった。
・それどころか、作品の核となる部分に関わっていた。
・TM NETWORK は、実質4人で動いていた時期があった。
という事を、まずはネット上に書き残しておくことです。

インタビューをお読みいただけば分るように、この時期については
PARCOライブで初披露された「Quatro」という曲のタイトルが
全てを物語っているでしょう。

この点については、当初の目的を達する事が出来たと自負しております。





しかしこれ以上の事となると、やはりこのような正史に残らない個人ブログではなく、
公式のインタビューとして公のメディアで語っていただきたい。





他のアルバムに比べ、初期の2枚のアルバム+ミニアルバムは
その制作実態がどうもはっきりしません。
いつも中心の欠けたドーナツ状の話ばかり聞かされてきたとミツカワは感じています。

「CHILDHOOD'S END」だけに絞っても、
その後のコメントでは『迷いの時期だった』の一言で片付けられていますが、
実際は当初のコンセプトが二転三転し、

 ・録音したサポートミュージシャンの演奏を全部消去して一から作り直す。
 ・制作の進め方にあたって、小坂プロデューサーとの軋轢
 ・アルバム完成後もキャッチーさに欠けるとレコード会社から判断され、
  別にシングル用の曲を作る事を要求される。

など、次々と腰砕けの状態になり結果的に「作品集」といった形に収まった様子が伺えます。

また、このアルバムが全く売れていないことに動揺した小室氏の脳裏には
"TM NETWORK 以外の選択肢” が浮かぶこともあったようです。



この辺を丹念に取材していけば、作られたストーリーに守られたアイドルではなく、
ドラマティックで酸いも甘いも噛みしめた
アーティスト(Human)としての TM NETWORK を歴史に刻むことが出来るでしょう。



しかし、その大きなチャンスになったかもしれない NHK-BS『MASTER TAPE』では、
当初、『RAINBOW RAINBOWを紐解く番組』との企画案が出されたものの、
小室氏に即、却下されてしまったそうです。






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ミツカワとしては、とにかく小泉洋・小室哲哉・木根尚登・宇都宮隆といった方々に
初期の作品群の制作実態、葛藤、その悪戦苦闘ぶりを公の場で語ってほしい。


今回の小泉氏インタビュー中にも、音や人名など何らかのキーワードがあれば、
とたんにあやふやだった記憶が鮮明に蘇るという場面が多々ありました。

さらに今回は「小室哲哉の旧友としての小泉氏に焦点を絞る」と宣言したように、
作品に関する具体的な作業工程などはあまり深くお聞きしませんでしたが、
やはり音色の話となると、ものすごい反応速度で答えが返ってきました。

この様子を見ていると、インタビュー初回冒頭に書いたように、
一人一人の記憶が曖昧でも皆で話せば確かなことが浮き彫りになってくるだろうと感じます。


そのなかには先に書いた TM NETWORK という枠を越えた貴重な出来事が
(技術的なことだけではなく)まだまだ含まれているはずです。






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ですので、これをお読みいただいているファンの方々も
『ファンであるならばこそ』このような中途半端な採り上げ方で満足されず、
ぜひ本当のことを知りたいと声を挙げていただきたいと思います。


デビュー前の小室氏が、自身で所有していた廉価なシーケンサーで作ったと思われる「INTRODUCTION [ANY TIME]」(TMN GROOVE GEAR 収録)。

この曲における、牧歌的とさえ言えるシンプルなシークエンスに対し、
冒頭から16分音符が雪崩を打つように押し寄せる「1974」を聴けば、
デビュー時における小泉氏の果たした役割の大きさは一聴瞭然です。






ミツカワとしては、
どんな事情があれ『作品にかけた想い』そのものは否定されるべきではないと考えます。






































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最後になりますが、お話を伺うだけでなく自宅で手料理をふるまっていただいた小泉洋氏。

また、資料確認から相談まで付き合ってくれた
・青い惑星の愚か者
・GAUZE
・かっと
各氏に感謝いたします。









さて次回からは、通常の「TM NETWORK の重箱のスミ!」に戻ります。
個人的に慌ただしい時期に入るので、更新が遅れます…と書こうとしましたが、
現状でも十分遅れている(ほんと、ごめん)ので、さして変わらないと思います。

今後とも気長にお付き合い下さい。