2015年2月1日日曜日

祝!30th【小泉洋氏インタビュー / その2】- あとがきと補足

こちらは【小泉洋氏インタビュー / その2】の補足説明となります。
まずはインタビュー本文から御読み下さい。

・祝!30th【小泉洋氏インタビュー / その2】☆ QUATRO 〜 4人のNETWORK










♫ 覚悟 ~ アレもコレもソレもドレも全部!


自腹を切って高級機材を買いあさる。

プロであるなら商売道具ですので、先を見越して購入していくと言うのは当然でしょう。
またプロでなくても、マニピュレーターを目指している人であれば、
少しづつ機材を揃えていくということもあるでしょう。



しかし元々ギタリストであった小泉氏には、TM のレコーディングに入るまで、
マニピュレーターになろうと言う考えは全く無かったわけです。

またレコーディングに入る前ですのでプロですらなく、
先の展望があったわけでもありません。
事実、今回お話しくださったように、わずか3日でクビになった可能性すらあったのです。

そしてなにより、現在とはコンピューター含め、機材の価格が段違いです。



その状況下で最大時1500万円を超える借金をしながら、
次から次へと、数百万単位の機材を買い揃えていたのですから驚きです。
前回のお話で「チャンスとあれば、ひとまずギターを置いてでも全力で取りに行く」
と語っていらっしゃったその覚悟が、
単なるポーズではなかったことが、ひしひしと伝わってきます。 



ちなみに小室氏は1986年、
「FANKS DYNA☆MIX Tour」のパンフレットで、次のように述べています。
『自分の手に追えなくなってきてね、極端に高いんですよ、楽器が。
 それで、ちょうどマニュピレイター(原文ママ)という人たちも出てきたんで、
 そういう人たちに頼ったりとか。自分で買うのはあきらめてね。』



皆さんも今回のインタビューをお読みになった後は、
今まで見慣れてきた当時の写真や映像が、
また違った意味合いで見えるのではないでしょうか。

















































なお80年代、マニピュレーター時代の小泉氏は新宿のイシバシ楽器と懇意であったそうです。
そのため同店には常に、小泉氏のために Emulator Ⅱ の代替機が用意されていたそう!

さらにあまりにこの店で、同じ担当の人から高級機材をポンポン購入していたせいで、
この担当者は本社へ栄転されたそうです。
ある日店に行ったら、なじみの担当者が居なくなっていて、
その理由を聞き、唖然としたとのことでした。









♫ 魔の3日間 〜 TM NETWORK は初めから『QUIT』だった!!〜


この一連のインタビューは小泉氏の許可をいただいた上で、
時系列順・テーマ順に整え直しているのですが、
実際は、お宅に伺って開口一番出てきたのがこのエピソードでした。
30年経った今でも、決して忘れられないそうです。


その経緯をもう一度、なるべく簡単にお伝えします。
(単純化するため、例外等は一切考えないこととします。ご了承ください)


まず TM のような "打ち込み" と "生演奏" の混じる曲の場合、
コンピューターとレコーダーをシンクロさせなくてはなりません。
それぞれの役割分担があるからです。(図参照)

































この2つをシンクロさせる場合、主従関係は
[コンピューター] → [レコーダー] となります。

人間の演奏にコンピューターは自動で合わせてくれないので、
人間側(ギタリストやドラマーなど)が
コンピューターのテンポに合わせて演奏するわけです。



そこで下準備として、これからレコーディングする曲のテンポを設定したコンピューターから
『タイムコード』という信号を出力し、レコーダーに曲の長さ分、録音(記録)します。

こうすれば次からはレコーダーのスタートボタンを押すだけで、
自動的にコンピューターが追随するようになります。

ここだけ見ると [レコーダー] → [コンピューター] のように見えますが、
実際は、レコーダーに記録したコンピューターのタイムコードに、
コンピュータが従っているに過ぎません。



つまり『録音した自分の掛け声(タイムコード)』に合わせて
『自分が踊っている』だけです。



これが本文に出てくる、当時のスタンダード(旧来のやり方)です。
この当時、音楽用コンピューターは Roland MC-4 という機種が標準的に使われていました。
上記のやり方ですと MC-4 の掛け声に合わせ、MC-4 を動かしていたわけです。







ところが小泉氏が「RAINBOW RAINBOW」レコーディング時に要求されたのは
MC-4 の掛け声に合わせ、パソコンを動かすと言う難題でした。
いわば『他人の掛け声』に合わせて『パソコンを動かす』わけです。



本文でポコ太が指摘しているように、この方法に本来の意味はありません。

その後の作業に MC-4 を使うから MC-4 の掛け声を入れておくのであって、
その後の作業に MC-4 を使わないのに MC-4 の掛け声を入れておく必要はありません。

これはつまり小室氏や小泉氏が主張した、パソコン方式が失敗したとき、
MC-4 を使った旧来の方法に路線変更できるようにするための『保険』です。



なんとなく非生産的な香りがしますが、
ただ、このような前例の無い「パソコンを使用したレコーディング」を、
とりあえずという形ではあれ、トライさせてくれたのは、
やはり、当時の Epic Sony が若い会社だったからかもしれません。

会社によっては一笑に付されていた可能性もあるでしょう。










♫ 狂ったリズムのウラで


さて前回、予告で『唯一タイミングが合わなかったものがあった』と表現したのが、
このシンク・ボックスでした。

シンク・ボックスと言うのは以前こちらでも "シンクロナイザー" として取り上げましたが、
複数の機材のテンポを司る、指揮者のようなものだとお考え下さい。
これがないと指揮者のいないオーケストラ同然、
各楽器が好き勝手バラバラに鳴って “音楽” になりません。



そのシンク・ボックスのスタンダード Roland SBX-80 は、1984年には既に発売されており、
今までポコ太は、それが TM NETWORK のデビュー年と重なるため、
深く考えていませんでした。





























しかし今回インタビューを伺って、再度 SBX-80 の発売時期を調べたのですが、
当時のカタログや広告などから推測するに、
どうも発売されたのは、1984年の早くても初夏から秋ごろのようです。
「RAINBOW RAINBOW」のレコーディングは、
同年の2月初旬には終わっていますので、全然間に合っていません。



そう考えると確かに、この時点でパソコンを使った同期レコーディングをしたと言う事は、
世界的にみても、かなりレアなケースだった事は確かでしょう。



と同時に、この無茶な計画に正面切って突っ込んで行けたのも、
小泉氏がそれまでアマチュアだったため『プロのレコーディングのお作法』を
把握していなかったから…という面も伺えて興味深いところです。



もしこの時、小室氏がレコード会社任せでベテランのオペレーターを雇っていれば
「ピコピコさせたいなら、そんな無茶なことをせず、
 シーケンサー専用機を使えばいいじゃない」と言う "大人の意見" に抗えなかったでしょう。

小泉氏自身も「最初の段階で俺をクビにして、ベテランの人を連れてくるという考えも
(レコード会社としては)あったかもね。でもその場合、パソコンでは無くなっちゃうよね。
そんなこと誰もやってなかったんだから」と語っておられました。



しかし、そうなれば「パソコンを使ったレコーディング、ライブ」という、
小室氏の野心は削がれ、ブレイクに多大な貢献をした「パソコンを駆使したグループ」という
TM NETWORK のイメージ戦略は生まれていなかったかもしれません。

「Self Control」~「Get Wild」の時期のTV出演で、うずたかく積まれた機材の上に
“飾られた” パソコンを背に、歌い、演奏する姿にハマったファンの方は多いはずです。



そう考えると、TM NETWORK が80年代に貫いた
パソコンを前に打ち出したイメージ戦略は、前回の "タイミング” の話と合わせ、
この時期の(偶然も含めた)様々な要素が重なって生み出された、
とも捉えられるのではないでしょうか。










♫ 2台の PPG WAVE


御本人は1台しか存在していないと仰っていましたが、PARCOライブのビデオを見ると、
木根ブースには PPG WAVE 2.2 、小室ブースには同 2.3 が置かれており、
お話の内容と一致しません。

調べてみると確かに小泉氏のおっしゃるように、当時 2.2 の基盤を交換するサービスが存在し、
これによりMIDI端子を付けることが可能ではあったのですが、
これと 2.3 はまた別個のものであり、当時次から次へと機材を購入されてされていたため、
小泉氏の記憶が混同されているのではないでしょうか。

PARCOライブでのもう1台はリースだった可能性もありますが、
2ndアルバムの機材クレジットの件も合わせ考えると、
ポコ太としては、PARCOライブの時点で
既に2台目の PPG(2.3)を購入されていたのではないかと考えます。



…と思ったのですが、この記事をエントリーする直前に気付きました。
札幌公演では木根ブースから PPG が消えてる!(ついでに Roland JX-8P も消えてる?)
やっぱりPARCOは撮影があるから見栄を張ったのか?!


うーむ、これは混沌としてきました。
ひきつづき重箱のスミを突いてまいります!



なお1984年6月に渋谷 live inで行われたデビューライブや、この時期のTV出演には
木根ブースに YAMAHA GS2 という TM にしては珍しいキーボードが置かれていましたが、
それ以降は全く見あたりません。これは MIDI にも CV方式 にも対応していないため、
「RAINBOW RAINBOW」のレコーディングには使われていないと思われます。
ひょっとすると木根氏の私物だったのかもしれません。


































♫ 消えた Prophet-5


これもポコ太にとって当時から謎だったのですが、
アナログシンセの代名詞といってもいいほどの名器、Prophet-5 が
TM NETWORK の現場では、なぜか影が薄い。

小室氏はたびたびセミプロ時代の思い出として、
YMOのプログラマー・松武秀樹氏と現場で一緒になった際、
松武氏が持ち込んだ Prophet-5 を触らせてもらうことができて感激した、と述べています。

つまり小室氏にとっても、当然のごとく憧れのシンセであったはず…なのにです。



同じ会社の製品としてはこの時期、小室氏が使っていた廉価版の Prophet-600 、
3rdアルバム「GORILLA」以降は、オペレーター迫田至氏の持ち込んだ
Prophet-T8 , Pro-One が盛んに使われるものの、当の Prophet-5 となるとやはり影が薄い。
その後のライブツアーなどの機材表を見ても Prophet-5 は見当たりません。

せいぜいサポートの白田朗氏が「FANKS DYNA☆MIX Tour」(1986年)で、
同じくサポートの浅倉大介氏が「DOUBLE-DECADE」の 武道館公演(2004年)
に持ち込んでいるくらいでしょうか。



そんな中、はっきりと Prophet-5 が映っている貴重な映像があります。
それがデビュー曲「金曜日のライオン」のプロモーションビデオです。























       (ちなみに木根氏の正面には、すでに OB-8 が置かれている)





この30年以上、ポコ太はてっきり撮影用に用意した機材だと思っていたのですが、
今回の小泉氏の話から推測すると、これも氏の所有機材だったわけです。
「RAINBOW RAINBOW」のレコーディングで使用された後、
このPVを最後にお役御免になったと思われます。

なおインタビュー中、Prophet-5 の代わりに購入したとおっしゃっている、
Oberheim OB-8 は1984年後半以降、レコーディングにライブに大活躍!
近年の小室氏の作品にも最新機材の中に混じって、この OB-8 が使用されています。























       (「Dragon The Festival tour」より。上段/DX7 下段/OB-8)









♫ もう1人の小室哲哉・もう1人の小泉洋


今回のインタビュー内容で、ポコ太が一番驚いたのがここです。

一時期(現在も?)小室哲哉の典型的なイメージともなった、
ひたすら同音を連打するかのようなメロディーライン。
その、たたみかけるようなノリは一度ハマると一種の中毒性すら感じさせます。

逆に80年代には、一歩間違えると単調極まりなく聴こえるコレを指して、
『念仏』だとか『モールス信号』などと揶揄されることもありました。

それほど典型的なイメージとなっていたにもかかわらず、
ポコ太は今迄それを "小室哲哉の個性” だとか ”クセ” だとかの一言で片付け、
それ以上の考察を試みたことは一度もありませんでした。
せいぜい、洋楽(特にハードロック)の影響くらいに考えていました。

しかし小泉氏が教えてくださったように、
このメロディーの組み立て方も、小室氏の長年の研究の成果だとすると、
驚きというより一種の戦慄のようなものを感じました。




戦慄といえば、インタビュー中にこんなやりとりがありました。

⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ DX7 も発売直後に購入されたようですが、
     そのオペレーションに戸惑われませんでしたか?
◯ ん?いや、そんなことなかったよ。
なんかちょこちょこ触ってたら、すぐ出来るようになっちゃった。



YAMAHAのDXシリーズは『FM音源』という、
当時主流だったアナログシンセとは全く違う方式を採用していました。

にもかかわらず、それまでのシンセと比べ、ツマミやスライダーなどが極端に少なく、
液晶画面も小さかったため、音作りはかなり難易度が高いものでした。
そのため "出来合いの音色を別売する” という、新しい商売が生まれたほどです。

そこでこのような質問をしたわけですが、その答えを聞いてもこの時点では
「あのDXを初体験で使いこなすというのは、さすが技術に強い人は凄いな」
程度にしか捉えていませんでした。



ところが数時間後、雑談中に小泉氏の方からふと、こんな話を打ち明けられました。

『俺ね、最近改めなきゃいけないなと思ってることがあるんだ。
 昔からさ、努力とかを表に見せるのって格好悪いと思ってたんだよ。
 そういうのは人に見せないところでやって、
 表ではサラっとやってみせるっていうのが美学というか、かっこいいと思ってたんだよね』

『だけどさ、少なくとも若者に対してはそれはよくないんじゃないか?と思い始めたんだ。
 というのは、そういう態度をとっているのを若い奴から見ると
「小泉さんは才能があるから出来るんですね。それに比べて私は才能がないからダメなんだ」
 ていう風に捉えちゃうみたいなんだよ』

『違う!そうじゃないんだ!見えないところで必死に努力してるんだ!ってことを、
 ちゃんと伝えていかなくちゃダメだなって…。
 さっきの DX7 の話もね、予約して発売日に購入してさ、新宿から多摩の実家に持って帰る
 タクシーの中で、分厚いマニュアルをもう首っ引きで読んでたよ。
 そうやって必死で食らいついて食らいついて、やっと使えるようになったんだよね』



皆さんは、この「人前では努力を見せない」という美学を、
小室氏が何度も語ってきたのをお聞きになったことがあるはずです。



今回、御宅で話を伺うこと6時間。
その最中、ポコ太は自分が向かい合っている相手が誰なのか、
ふと分らなくなる瞬間が何度もありました。

というのも音楽性だけではなく、表現の仕方、嗜好性、美学などが、
まるで小室哲哉氏とそっくりだからです。
(ちなみに御宅の時計からは「展覧会の絵」「Jupiter」などが一時間毎に流れてきました)

また小室氏の側にも、当時の発言からは小泉氏の表現の受け売りがみられました。

これは、どちらが一方に影響を与えていたのではなく、
お互い一緒に過ごした長い時間の中で、ある意味『感性のチキンレース』というような感じで
共有、先鋭化していったものではないかと感じました。









♫ PARCOとテープと記憶の彼方


今回のインタビューで小泉氏は、PARCOライブに限らず
「自分が在籍中はテープは一切使っていない。
 そこは俺も哲っちゃんもプライド持ってやっていた」と語ってくださいました。



この重箱Blogでは以前、
"PARCOライブのバックトラックは、テープが使われていたのではないか?“ と考察しました。

そこでここはもう少し詳しく伺って、記事の訂正、
場合によってはその場で土下座して謝罪しようとも考えたのですが、小泉氏曰く、
「いや、その思いを持って日々やっていたのは間違いないんだよ。それは絶対そうなんだけど
 じゃあ本番はどうだったのか?って言われると憶えてないんだよね(苦笑)」とのこと。



御本人によると、この重箱Blogを見つけた後輩の方からの連絡で、
昨年の春には、PARCOライブの記事をお読みくださっていたそうです。
(恐縮です…いやほんとに恐縮です)

そこで後輩の方にも「俺、当時こんなことやったとか、こういう風にしたとか言ってた?」
と聞いてくださったそうなのですが、後輩の方も含めもう記憶にないそう。
御本人曰く、特に1年目は日々技術革新との戦いで毎日情報が更新されるため、
今となっては一つ一つを思い出すのが難しそうです。





さて、この件で以前のエントリー以降、ポコ太が気付いたことを少し加えておきます。

このライブは1984年12月に、渋谷、札幌、年をまたいで
翌年2月に広島(位置付けは違うが先2つと同内容)と行われたのですが、
3回とも小室氏による『TM NETWORK!』という掛け声から始まっており、
この声の調子、エフェクトのかかり方が全く同じです。

よって事前収録したものを流していると思われますが、
この当時まだ TM に Emulator Ⅱ(サンプラー)は導入されていません。
小泉氏は Mirage(別会社のサンプラー)も所有されていたとのことですが、
これもまだ発売前のはずですし、サンプリング時間から考えても、
この掛け声がテープのシンクだった可能性があるのではと考えられます。



またPARCOライブの翌年、1985年のゴールデンウィークに
NHKラジオで TM NETWORK のスタジオライブが放送されました。
この時のバックトラックは新曲である「ACCIDENT」「DRAGON THE FESTIVAL」を除き、
PARCOライブとかなり似ているのですが、番組中のインタビューで小室氏は
「コンピューターとテープをシンクロさせている」と述べています。
(もちろんこれは、この番組における新たな試行だった可能性もあります)



さらに卓袱台返しとして
"ビデオ化される際、大幅にオーバーダビング・差し替えが行われた”
という可能性もあります。



どちらにしても鍵を握る小泉氏の記憶が曖昧な以上、どれが正解かは籔の中です。
まだまだ、重箱道を極める旅路は遠そうです。












⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯











  [ ここだけ『重箱のスミ!』~名誉挽回の巻~ ]






それはたこ焼きを完食したポコ太が、そろそろおいとましようと腰を浮かした時でした。
突然 そうだ!と、小泉氏。


『重箱ブログ見せてもらって驚いたんだけどさあ、
   俺が 10円ハゲになった って書いてあったじゃん!

 
 もう驚いてさあ…、なんでこいつ

  「この隠された事実」「隠された真実」
     を知っているんだって!?


           …あれはどうして知ってたの?』





「いや、あれは当時からメンバーがネタにしてましたよ。
   木根さんなんか本にまで書いてましたもん」





            『…あ?、そうなの』
               「ええ」
                『…』






「ちなみにそれ、どの辺でした?」
『(ニコニコしながら後頭部を指差す)ここ!』(図参照)






『病院通いました!』

「え、そんなひどかったんですか?!」
『うん、赤外線だか紫外線だっけ?あてて…、
 で、治りました!(ニッコリ)』



「でも、そのストレスの原因は日々襲ってくるわけじゃないですか。
 そんな中でどうやって…

     って俺、こんな話を真剣に聞いて
            どうするってんだ…」


『多分レコーディングが終わって一区切りついた時に
 (治療に)行ったんだと思うよ。一安心ていうかさ』
それって労災ですよね。それは出してほしいなぁ手当を」





『気がついたのは、伊東さんなんだよ』
「あ、自分じゃなかったんですか?」

『後頭部だからね。
 伊東さんはいつもスタジオで俺の後ろに座ってたから気づいたんだよ。

  「おい小泉!お前禿げてっぞ」って。

 俺も思わず「え、ウソっ?」って触ったら確かに肌触りが違ってさ
                  「ヤベーっ」みたいな(笑)』


「でもステージに立たなくちゃいけない時ありますよね?」
『髪のばしてたから、ぱっと見はわかんないんだよ。伊東さんは気づいたけどね。
 それなのにブログに書かれててさあ、
 なんでそんなこと知ってるんだ?!こいつ
                             って驚いたんだよ』







  「いや、けっこう
    TMファンはみんな知ってる と思いますよ」








『(力なく)ああ……。じゃあ、今はもう治ったからって書いておいてっ!』
「わかりましたっ!」
『だっていまだに禿てると思われると、ヤじゃない!?』



「はい、毛根には非常に負担のかかる仕事
                       だったと書いておきます」






   『いや、あの当時のアレは誰だっていろんな形で出るよ…ストレス』






「でしょうね。というか 髪ですんで、まだよかった ですよね。
                  下手したら胃とかイっちゃってますよね」

『だよね…。自分としては根性あると思ってたけど、
 あの時は「やっぱさすがに俺、キてたんだなぁ」って思ったよ。
 …だってあの状況だもん…』




『逆に言えば、
 あの状況乗り越えたって思えば
   なんだってできるよ!!
 嫌な上司がいるとか、そんなのいくらだって我慢できるよ!
 そんなの屁でもねえじゃないか!って言いたくなるよ』

「こちらは相手しなくちゃいけないのが、会話の出来ない相手ですもんね」

『だって一手間違えたら、ライブでもそうだけど全て俺の責任だもの。
   もう冷や汗とかいうレベルじゃなくて、グシャグシャだよね。
     借金も抱えちゃってさあ、何とかなったからいいようなものの…』





「いやー正直言って、聞いてて楽しいの半分、辛いの半分と言う感じで、
 ある意味、いちばん貴重な話 を聞かせてもらいました」

『書いといてね!治ったって!』
「お任せ下さい!」








       というわけで、皆さん!

    小泉洋氏が「RAINBOW RAINBOW」の
     レコーディングで発症した10円ハゲは、
       見事、完治しております!

   可及的速やかに情報のアップデート・拡散を願います









小泉さーん!ちゃんと名誉挽回しましたよー!

不肖、ポコ太。
いままでの人生で、初めて人様のお役に立てたような気がしております。









7 件のコメント:

  1. 息を詰めてポコ太さんのエントリー拝読いたしました
    久方ぶりの「ブレない男」の活躍もみられてニンマリです
    10円ハゲにたこ焼きと丸いものつながりで
    今度はマカロンとレモングラスティーでも差し入れますねw
    本当に豪華なお節をごちそうさまでした

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    1. イヨ太さん
      返事が遅れすみません。
      もしまだ息を詰めていたら、そろそろ呼吸を再開してください。
      ちょっと心配です。

      なにしろ、またすぐに息を詰めていただきますので。

      削除
  2. こんにちは。青い惑星さんのところでコメントを読ませてもらって以来記事読ませてもらってます。
    小泉さんは自転車屋さんをされているとも聞いたことがあったのですが、まさかたこ焼き屋さんになっているとは思いませんでしたねえ(笑)いえ、冗談ごめんなさい。
    記事中の「ビデオ化される際に大幅にオーバーダビング、差し替えが」、とありますがおそらくそうなのではないでしょうか?小室さんがビデオ発売の際に「ビデオの為にミックスをやり直したから結局48時間近く掛かった」と答えていたのを覚えています。
    また、バックトラックについては山下達郎さんを参考にもされていたともおっしゃっています。
    「山下さんの音楽はどうして洋楽っぽく聴こえるのかよく大学時代に考えていた」とも答えています。
    素晴らしい記事を読んだただの感想ではありますが何かありましたら参考までに。

    寒い日が続きますが御身体にお気をつけてお過ごしください。いつも良い記事をありがとうございます。

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    1. Mさん
      はじめまして。
      にもかかわらず、こんなに返事が遅れて大変失礼しました。

      TMのビデオに大幅な編集は定番ではありますよね。
      これで生ドラムが絡んでいれば映像と音のズレで編集部分が分かるのですが、
      全編打ち込みの音で、しかも確実に2テイクの映像が混ざっているとなると、
      ほとんど判断のしようがない状況です。

      ただショルダーキーボードのソロなど、
      確実に映像と一致している部分があるので、
      根本から差し替えたというのでもなさそうです。

      さらに以前の小ネタで書きましたが、同じPARCOの「1974」で
      映像は同じなのに Bass ラインが違うものが存在しています。ワ
      ケわかりません(笑)
      これはまだまだ重箱のスミをつつかなくてはならないようです。





      >>バックトラックについては山下達郎さんを参考に

      確かにトラックの研究はミュージシャンであれば皆やってますよね。
      メロディーラインだってみんな研究してます。(僕でさえします…)
      でも今回の話を伺って僕が驚いたのは、そこではないんです。

      普通メロディーを研究するって言うと、特に鍵盤弾きは
      『音程の上がり下がり』に注意がいくものですが、
      小室氏の場合、小泉さんの言い方を借りると『叩き込み』
      つまり音程ではなく『メロディーの持つリズム』を
      研究していたということなんです。
      これは非常に小室哲哉らしい着眼点だなと驚きつつも納得した次第です。




      さて、次回分もうすぐエントリーします!
      あと少々待ちください。

      削除
  3. ポコ太さん、更新有難うございますm(__)m
    ブラボーです!鳥肌ものでした。
    本当に、見慣れた写真が違ってみえました(笑)
    写真だけでなく、RAINBOW RAINBOWの曲もすべて違って聞こえます。

    小泉さんがとても才能のある方だったことがよくわかりました。

    小泉さんって、数少ない写真や動画でちょっと小室さんに雰囲気が似ていると思うことがあったのですが
    外見だけでなく、中身も小室さんにすごく近いものをお持ちだったのですね。

    何でも安くプロ並にできる今とは違って、本当に、当時は機材が高かったですよね。
    私も高校・大学生のときはいつも機材のローンがあり、(小泉さんとは借金の額が2桁違いますが!)
    いつもバイトをし、ローンを払い終わる前にまたいい機材が出て、その機材は古臭くなり…
    自分が欲しいから買っているにも関わらず、なんでいつも(バンドの中で)自分が買わなくちゃいけないの、と思ったこともあります。小泉さんはそう思わなかったのかな・・

    小泉さんは、機材、出費の面だけじゃなく、サウンド的にもメンバー同然(か、それ以上)に関与していて、すごく才能のある方で、しかも責任だけは問われる立場だったのに、なぜそういう位置に甘んじておられたのか?と思いますが、小泉さんにそうさせる力がTMにはあったということなのでしょうか。
    でも、そこまでしたのになぜ離れていくことになったのか、それに対してTMの三人がどう思っていたのかはとても気になります。

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    1. NutRockerさん
      返事が遅れに遅れ、大変失礼しました。
      今の段階ではコメントいただいた内容に、ストレートなお答えが出来ないのですが、
      小泉氏が単なるサポートメンバーではなかった。
      それどころかTMサウンドの中心を握っていたキーマンだった。
      ということが伝わっただけでも、やった甲斐があったと思います。

      この辺りは次回のエントリーで、
      全体のまとめの様なものを書こうかと思っています。
      もうしばらくお待ち下さい。

      削除
    2. >>いつも機材のローンがあり

      ありましたねぇ『男の60回払い』…(遠い目)
      あの頃は、ボーカルがうらやましかったですね。
      あと、スネアしか持ち運ばないドラマーとか。
      さらにギタリストの中には
      「シンセサイザーは何でも出来る魔法の楽器」と思ってる奴もいて、
      無茶なことばかり要求されたり。

      無茶ではないですが、僕は一度ギターバンドに呼ばれて何をするのか尋ねたら
      真顔で「パーカッションをやって」と言われたことあります。

      やりましたよ!
      重い鍵盤担いで行って、最初から最後までチャカポコチャカポコって。
      おまけにソロも!もちろんパーカッションのソロ!!

      まあ、今となっては美しい思い出…のわけないじゃん!
      この思い出は重いでぇぇ。

      削除