2015年4月20日月曜日

人か機械か?!渋谷デビューの凄い奴!

ミツカワです。

前回までの豪華絢爛な重箱企画を終えて、
恥ずかしながら、重箱のスミっこに還ってまいりました。
いや~やっぱりホっとするね、スミっこは(笑)

昨年11月からずーっと小泉洋氏インタビューにかかりっきりだったせいで、
本来の『重箱のスミ!』って、どんなブログだったか忘れかけてましたが、
今回からまた、のんびりしょんぼりやってまいりますので、
皆様、どうぞよろしくお願いいたします。





あ、ひとつ御報告を。

3月21日・22日に行われた横浜アリーナでのコンサート。
ここで演奏された「Here, There & Everywhere」は2日間とも
♫ ~ 涙にくれた出来事 “さ” と歌われておりました。

なんのことか分らない方はこちらのエントリー (小ネタ No.03-3) をお読みください。

まあ、こちらの方が歌いやすいとは思うのですが、
これで歌詞カード準拠になったと思いきや、
先のエントリーにコメントを寄せてくださった adem さんによると、
近年発売された Blu-spec CD の歌詞カードでは “さえ” となっているそうです。

うーむ。出会えない 二人のrelation とはこのことか…。






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というわけで( ← 強引な導入)今年初の「重箱のスミ!」のテーマは、
[幻のデビューライブにおける
      ドラムサウンドの謎に迫る!]





…ほーら、みんな置いてきぼりだ…。





デビューライブ自体が公式記録から抹消されており(注)よく分らないのに、
さらにドラムサウンドがどうこう言われても…
と 困惑される方々 の顔が容易に目に浮かぶ。


ドラムサウンドの謎とは?については、
以前、こちらのエントリー (小ネタ No.01-2) に書いた。
ここに書いた長年のモヤモヤがあっさり解消されたよ!というのが今回のエントリーだ。

詳細については元エントリーを読んでいただきたいが、
ここでは再度、その疑問点を簡単にまとめておく。


 (注)ところが昨年発行された「小室哲哉ぴあ TM編」の "CONCERT HISTORY" には、
    "DEBUT CONCERT” として、しれっと記載されている。
    30年も経って、いまさら公式化されたのだろうか?
    前回チラリと触れたが、その他にもの本には端々に気になる記載がある。
    しかし誤植も非常に多かったため、どこまで真剣に突っ込むべきか迷うところだ。






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まず『TM NETWORK 幻のデビューライブ』とは、次のライブハウス3公演を指す。

1984年6月18日 東京 渋谷 LIVE INN
    7月17日 大阪 梅田バナナホール
    7月31日 東京 渋谷 LIVE INN

今回のテーマはこの3公演中、最初の『6月18日 渋谷 LIVE INN』でのドラムが、
生演奏だったのか?それとも打ち込みだったのか?というものだ。




ライブ直前、リハーサル合宿時点でのインタビューで小室哲哉は
"ドラムを打ち込みでやるため” の仕込みで今、おおわらわだと述べていた。

                ↓

だが少なくとも、7月の 梅田バナナホール公演 は阿部薫による生ドラムだった。

                ↓

結局、打ち込みの話は本番直前に無くなったのかと思いきや、
小室哲哉は、翌85年の平山雄一との対談内でも
『初めてのライブは打ち込みドラムでやった』と話している。
(この "初めてのライブ” というのが「パルコライブ」のことを指しているのか?
 とも疑ったのだが、前後の文脈からすると、
 やはり84年6月のデビューライブを指しているようだ)

                ↓

ではやはり、6月の渋谷 LIVE INN だけは打ち込みのドラムだったのか?

                ↓

だがしかし木根尚登はその著書にて、この渋谷公演は 高杉登 が叩いていたと書いている。

                ↓

            訳☆ワカメ☆



というわけである。







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【お詫び】今回のエントリーは画像が重要な資料なのにもかかわらず、
     我が家のスキャナーが息を引き取られた為、
     一部、本などを直接カメラ撮影した画像となります。
     そのため見辛い画像もございますが、ご了承ください。



まず本題に入る前に、こちらの写真を見ていただこう。

これは木根尚登の著書「真・電気じかけの預言者たち -眺望篇-」に掲載された
デビューライブの写真である。(黄色の[A][B][C]はミツカワが付けました)

































今回の主題であるドラムとは関係がないが、
このデビューライブ、意外と様々な資料が残されているようだ。

例えばであるが、この写真中 [A]と[B][C]はそれぞれ 別の日付の公演 である。
ご覧の通り小室哲哉の髪型、服装が全然違う。

キャプションには『どこの公演かは不明』とあるが、
他の資料と突合した結果、[A]に関しては 6月18日の渋谷 LIVE INN で間違いない。
























      (6月の渋谷 LIVE INN では小室哲哉の髪型が大惨事となっている)





また別の観点からみても、[C]は7月の2公演のどちらかに間違いない。
この『別の観点』というのが今回の主題である。


このように、複数の公演で記録が行われ、
さらに6月の渋谷 LIVE INN にはビデオカメラも入っていたようで、
『デビューライブ』としての気合い が伝わってくる。

つまり現在でも様々な資料が埋もれている可能性があるわけだ。
ワンパターンになるので、
これ以上は言わないが…。








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さて本題だ。


前回までの小泉洋氏インタビューを行った際、
当然、このライブの詳細についてもお聞きしたのだが、
残念ながら氏の記憶は定かでなく、具体的なヒントは得られなかった。

ただ、3公演の内容(機材やシステム)が同じではなかったのではないか?
というミツカワの仮説に対しては、
「パルコライブまではライブをやるたびに試行錯誤を繰り返しており、
 同じではなかった可能性は十分にある」
と話していただいた。



その後はインタビュー記事の作成に追われ、この件については忘れていたのだが、
ところがこのインタビュー、別の意味で大きなヒントが得られたのだ。






          それは 言葉の定義付け である。






ちょっと、おさらいしてみよう。

例えば小泉洋氏インタビューを行うまでは、
「コンピューターを使ったライブは世界初かも」という、
当時の小室発言は何を言っているのか、よく分からなかった。


1984年の時点で「コンピューターを使ったライブ」はとっくに一般化していたからだ。


しかし、当時のインタビュー等に出てくる『コンピューター』という単語には、
『音楽専用コンピューター』(シーケンサー)と、
『一般的なパソコン』が混在している
ということに気付くと、一気に理解が進む。


1984年の時点で一般化していたのは
音楽専用コンピューター(シーケンサー)を使ったライブであり、
小室哲哉の言う「コンピューター」というのは「パソコン」を指していた。

つまりその発言の本意は「パソコンを使ったライブは世界初かも」ということだったのだ。
そうであれば実際に世界初だったかは分らないが、かなり早かったのは間違いない。




この経験から、今回の主題である『ドラム』あるいは『ドラマー』という言葉についても、
そもそもそれが何を指しているのか?
という部分に立ち返って、考えてみようと思ったのだ。








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一般に『ドラム』と聞いて浮かぶイメージはこんな感じだろう。

































              …いや、これはこれで特殊か…。
                   やりなおし。








一般に『ドラム』と聞いて浮かぶイメージはこんな感じだろう。































ところがだ。
ちょうどこのデビューライブが行われた頃のTV出演、あるいは「1974」のPVを見てみよう。































































お分かりだろうか?
そう、立ってプレイするスタイル なのだ!







上の画像では、どちらもカラオケ演奏だったが、
実際のライブでもこのようなスタイルで行われたという仮説は成り立つだろう。

現代からすると珍妙にも見えるが、1980年代初頭においては
最先端のスタイル演出として、わりと洋楽のPVやライブなどで見られた。























                Howard Jones のライブ























                  YMOの散開ライブ

  (なお、後ろのドラマー David Palmer は、TM作品「CAROL」への参加も有名だが、
   90年代からは長年に渡り、宇都宮隆のフェイバリット・アーティスト Rod Stewart の
   アルバム、及びツアーに参加。コンポーザーとしてもクレジットされている)









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と、ここまでたどり着いた2日後、
インタビュー記事の補足資料として今更ながらに購入した
2012年夏のキーボードマガジンが届いた。

この号には非常に小さいながら、デビューライブの写真が掲載されている。
その中の1枚を見た瞬間、仮説は確信へと変わった。

それがこの写真である。








元が非常に小さいうえ、暗くて潰れている部分もあるので判りにくいかもしれない。
ただそれが 通常のドラムセットではない ことは判るだろう。

大幅に機材が増強されているものの、
これは「1974」のビデオクリップなどに見られた、
立ってプレイするタイプのセットに見える。



ただ、足元にバスドラムのように見える物も写っていて、
これだけでその日のプレイスタイルを断定するには心許ないのも事実だ。


そこで一旦、インタビュー記事の作成から離れ、
知るかぎりの全てのデビューライブの写真を見つめ直すこととした。
(こんなことしてるからインタビュー記事が
   遅々として進まなかったのだ)







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その結果、ついに 決定的な写真 を見つけた。
これはTMN終了時のデーター本「TMN FINAL 4001」 に掲載された写真である。





















はっきりとしない写真であるが、後列の2人に注目していただきたい。

左側(水色の矢印)は小泉洋であり、右側(緑の矢印)がドラムセットの位置である。
そこにいる人物のシルエットに注目してみよう。

通常のドラムキットに座っていれば、
このような頭の高さ、および姿勢にはならない
つまり 立ってプレイしているのは間違いない。



謎は完全に解けた。







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まとめよう。


1984年6月18日 渋谷 LIVE INN でのドラムは、
打ち込みと生演奏の混合 だった。

具体的に言えば、バスドラムやハイハット(ひょっとするとスネアも?)など、
基本のパターンは打ち込み(パソコン)で流し、
その上に上記写真のようなセットを使って人間がおかず(装飾的なフレーズ)を入れる
というスタイルだったと思われる。

また、ティンバレスもセッティングされているように見えるので、
曲によってはパーカッションがメインだったのだろう。
(その場合、ドラムの打ち込み度はさらに高くなる)



これなら最初の小室哲哉、木根尚登の発言とも矛盾しない。



しかし何らかの理由で望み通りの成果が得られず(注)
7月の公演では通常のドラムセットを組み、
ドラマーが全て生演奏するというスタイルに変更したのだろう。

  (注)当時の雑誌に掲載されたライブレポートでも、
     本番中なにがしかのトラブルが起こった事がほのめかされていた。



たった2カ所、3公演なのに
ドラマーが毎回違うのも、この急なシステムの変更が理由と考えられる。



ひょっとすると、1回目の 渋谷 LIVE INN と 梅田バナナホール の間が
1ヶ月も空いているのも、当初のスケジュール通りではなかったのかもしれない。

となると、7月31日の 渋谷 LIVE INN については
当時のチラシでは『追加公演』ということになっているが、
リベンジ公演という側面もあったのだろうか…。








また、これによって6月の公演と7月の2公演では、
出音から受ける印象も、
かなり異なったのは想像に難くない。


さらに、よくコメントをいただく GAUZE さんから教えていただいたのだが、
曲順も一部変更があった可能性があり、
この3公演を「デビューライブ」の名の下に一括りにしてしまうと、
見えなくなってしまう部分もあるようだ。







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さてドラムの件が一段落ついたところで、最初の写真をもう一度見てみよう。
























舞台中央に通常のドラムセットがセッティングされているのがはっきりわかる。
当然、ドラマーも座って叩いている。
この時点で6月の 渋谷 LIVE-INN とは違うことがわかるだろう。



では7月の公演なのは間違いないとして、
梅田バナナホール公演だろうか? 2度目の 渋谷 LIVE-INN 公演だろうか?

ミツカワとしては
・ドラムのセッティングされた台の高さ
・天井に吊られた照明の高さ
などが特徴的だと感じ、様々なアーティストの同所公演資料と見比べたのだが、
残念ながら現時点では断定出来なかった。








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ここからは 6月公演と7月公演の違い を、
ドラム以外の観点から、現時点で分ることをまとめておく。


冒頭では多くの写真が出回っていると書いたが、
にもかかわらず検証が困難な理由は次の2点だ。

・人物のアップが大半で、ステージ全体をとらえたものが少ない
 (あっても真っ暗な状態が多い)
・ライブ後半の写真に偏っている。(宇都宮隆の衣装で判断)







まず 宇都宮隆の衣装 であるが、前提として、
デビュー間もないこの時期のライブハウスツアーレベルで、
ワンステージに何度も衣装替えをしたとは考えにくい
せいぜい前半に羽織っていたジャケットを、後半脱ぐ位だと思われる。


その上で次の2枚を見てみよう。
6月の 渋谷 LIVE-INN では写真右側の様に青いジャケットを羽織っている
これは「1974」のPV(下の画像)で着ているものと同じようだ。

ポイントは袖口から白いシャツが見えていること。
つまりこのジャケットを脱ぐと、左側の袖のある白いシャツが現れる。

















































次にこちらの写真。

7月のライブでは黒い(ように見える)ジャケットを着ている。
この衣装は先の「電気じかけの預言者」掲載写真[B][C]と同じであり、
他にも何種類か目にすることが出来るが、
どれも袖口からシャツが見えない。
よってこのジャケットを脱いだ場合は、右側のノースリーブシャツが現れると思われる。



















     (いくら中がノースリーブとはいえ、
      この季節にこんなジャケットを羽織って暑くなかったのだろうか?)











次は肝心の音に関して。

ドラムと並んで、もう一つポイントになりそうなのが
アコースティックピアノだ。

公式には TM NETWORK のライブでアコースティックピアノが使用されたのは、
1987年の「Kiss Japan Tour」が最初ということになっている。

(追記訂正:2015年4月21日)
よく考えたら同年6月の武道館公演が最初でした。

しかし先のキーボードマガジンによると、6月の 渋谷 LIVE-INN では
小泉ブースの奥にアコースティックピアノが設置してあり、
小室哲哉がこれを弾いたとの記述がある。

しかし当時の TM NETWORK の規模で、
アコースティックピアノを持ち運んだとは考えづらく、
これは会場備え付けのものだった可能性が高い。


となると梅田バナナハウスでは使用出来なかったと思われ、
これも聴いた印象はかなり違ったはずである。









最後にもう一つ注目すべきがこの写真だ。
小室ブースの後ろ(写真左端)に小泉ブースがセッティングされているように見える。
























これは6月の 渋谷 LIVE-INN とは上下(かみしも)が逆で、またもし仮に最初にあげた
「電気じかけの預言者」掲載写真の下手側にあるのが小泉ブースだとすると、
それとも逆になる。
(その場合、3公演すべての写真が世に出回っていることになる)

これは公演違いを見分ける大きなヒントとなるはずだが、
いかんせん比較する他の写真が無いため、今の段階ではここ止まりだ。

ただ、今後新しい資料が出て来た場合の足がかりにはなると思う。








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いかがでしたでしょうか?

すっかりご無沙汰で手探り状態の執筆でしたが、
『 TM NETWORK の重箱のスミ!』って
 こんな感じでよかったでしょうか?
         ( ↑ まさかの問いかけ)


とにかく30周年をもってしても表に出てこなかったデビューライブの細部が、
ほんの少しですが垣間見えたエントリーでした。





さて次回ですが、ブランクの空いた間に溜まった小ネタの放出となる予定です。
おたのしみに!



んじゃ、また。










  ・
  ・
  ・
  ・
  ・

あ、そうそう。

今回のエントリータイトル。分る人には光の速さでバレてるでしょうが、
 ↓ こいつの第1話サブタイトル「人か獣か?!密林から来た凄い奴!」をもじっています。















だかしかし!単なる趣味に走ったわけではない!!

これは 仮面ライダーアマゾン = 1974年 = TM NETWORK
という、練りに練った含蓄のあるエントリータイトルだったのだ!

  ・
  ・
  ・
  ・
  ・

 まあ、嘘なんですが…。
    単なる偶然なんですが…。

ただ、自分がアマゾンに興奮していた時代を思い起こすと、
1974年て、むちゃくちゃ昔ですな。



…まあ、今でも興奮してるんですが…。








2015年3月15日日曜日

30th特別企画【小泉洋氏インタビュー】を終えて



本文でも語っていますが今回採り上げた「CHILDHOOD'S END」は、
ミツカワにとっての Favorite Album であります。
それゆえに、このアルバムだけでしか味わえない雰囲気の正体はなんだろうと
長年考えていました。

今回、その疑問に対し小泉氏は明確な答えをくださいました。
音の "色艶” です。

確かにサードアルバム以降のTMは、色気や艶といった部分はブラスセクションや
サックスソロなどの生楽器に割り当て、シンセはむしろ正反対の無機質で
立ち上がりの早い機械的な音を前に出すようになっていきます。




これはターゲットが定まっていなかったということと表裏一体かもしれませんが、
セカンドは他のアルバムに比べ、歌詞だけでなく
サウンド自体の対象とする年齢が少し高めのような気がします。

だとすると、その要因の1つは小泉氏の存在だったのではと感じました。

また、ファーストアルバムとも異なるこのアルバムの雰囲気から、
当時のミツカワは TM NETWORK = シティーポップス と認識していました。

これは木根、宇都宮両氏にとってもスピード・ウェイの資産を生かせる、
TM NETWORKとしては珍しく、企画先行ではない(これについては後で述べます)
むしろ自然体に近い "居心地の良い" 作風だったのではないでしょうか。




小泉氏の話からは離れますが、ミツカワは以前、
セミプロ時代の小室氏とバンド仲間だった方と同席させていただく機会がありました。

この方のお話では、ある時小室氏が誰に言うでもなくボソッと
「角松くんにはしてやられたよなあ…」とつぶやいたことがあったそうです。

はじめはセミプロ時代、バックバンドの仕事に関しての話だと思い、
気に留めていなかったのですが、どうも頭に残り、
後からその発言時期を確かめてみると、セカンドアルバムの頃だとのこと。

つまりファーストアルバムにおけるファンタジックなエレクトリックポップス路線が
空振りに終わり、行き先に迷っていた小室氏としては
シティーポップス路線も視野に入れていた、ということでしょう。
しかしその席にはすでに角松敏生や村田和人などが座っていた…。
そこから出た発言だと思われます。



そう考えると本人にとっては不本意かもしれませんが、
TM NETWORK の作品の中でセカンドアルバムは(結果的に)唯一、
"プロデューサー・小室哲哉" ではなく、
"アーティスト・小室哲哉" の存在が表に来ている作品ではないでしょうか。

常に「普遍的なものより、その瞬間・時代を切り取る音を作りたい」と言い続けている
小室氏が、セカンド発売時のみ
「今すぐ売れなくても、末永く評価されるエバーグリーンな作品になっているはず」
と語っていたのが象徴的です。
















































♫ Twinkle Night ~魔物たちの夜


さて小泉氏はご自分の作り出す音を、色気や艶と表現されましたが、
ミツカワはもう1つ感じるものがあります。

それは “魔性" です。

特にミニアルバム「Twinkle Night」は元々、映画「吸血鬼ハンターD」からの
派生商品という側面があり(注)この作品でしか味わえない独特の雰囲気を携えています。

 (注)「吸血鬼ハンターD」発表当時、小室哲哉は
    『ここから3つの流れ(サントラ・シングル・イメージアルバム)ができる』と発言。
    このイメージアルバムの企画が、その後「Twinkle Night」になっていったようです。




特に「Electric Prophet」における最初の1小節。

たった1小節で聴く者をどこか異世界へ引きずり込む “鬼気迫る" 何かを感じます。
これ以降の曲を考えても、この1小節に匹敵するような「引きずり込む」曲はあまり
見当たりません。「A Day In The Girl's Life」「Beyond The Time」くらいでしょうか?
ただその2つも “魔性" とはまた違うと感じます。

そういう意味で「Electric Prophet」は曲自体はTM NETWORKの代表曲ですが、
その音色や音の組み立てはむしろ異色作ではないでしょうか。
発売当時、ライブでの素朴なフォークロック調のアレンジに慣れ親しんでいたファンから
拒否反応が出たのもこの辺だと思われます。

セカンドアルバムにおける音色も、既に魔性を感じさせるものがあります。
「愛をそのままに」での木根氏の不安は、その匂いを嗅ぎとってしまった故かもしれません。



歌詞、メロディー、アレンジではなく、
『音色』そのものに主張・世界感があるとも言えるでしょう。



小泉氏はシンセサイザーオペレーターという職業の特異性について
「機械的な知識だけでは出来ないし、アーティストとしてのイマジネーションだけでもダメ。
 両方が無いと出来ない」とおっしゃっていました。

たった1年でシンセサイザーという電子楽器から、
この色気・艶・魔性とも言える音色を生み出すに至ったこの時期の小泉氏をみると、
技術面は1年のキャリアでも、アマチュア時代からの音楽活動によって磨かれた
アーティストとしてのイマジネーションが、その成長を大きく促したのだと感じます。




結局このミニアルバムが TM NETWORK における小泉氏最後の作品となるわけですが、
この作品はたった4曲しか収録されていないにも関わらず、
その完成度は当時から非常に評価が高く、シングル「Your Song」と合わせ、
第一期 TM NETWORK の総決算と呼べるでしょう。

アルバム製作にあたってのヨーロッパ旅行から始まり、
セカンドアルバム ~ ツアー ~ ミニアルバム と
小泉氏が最後の最後まで手を抜かず、全力投球されていたことが伝わってきます。



















































♫ あとがき ~金色の夢の肌触り~


昨年末から3回にわたってお送りした
『30周年特別企画・小泉洋氏インタビュー』いかがでしたでしょうか。

手前味噌になりますが30周年を迎えた時、僕が期待したのが
この様な内容のインタビューでした。
まずは一区切りつけることができて、ほっとしています。

全3回、それぞれ
・小泉、小室両氏の出会いから、当時のバンドマン達の熱い思いと焦燥感。
・ファーストにおける悪戦苦闘
・セカンドでのこだわり、ツアーでのフル回転。

『小泉洋』と言う新たな切り口を与えていただいたことで、
今までとは違う TM NETWORK の側面が見えてきました。





ここではこのインタビューを行うに至った自分なりの動機・経緯など、
最後にちょっとだけ僕自身の気持ちを書かせてください。






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インタビュー当日の別れ際、小泉氏はすまなそうに
「たいしたこと話せなくてごめんね」とおっしゃいました。


しかしその小泉氏にとっての「大したことのない話」。
ミツカワは文章化している際、あまりにも自分の発言が「えええ!?」とか「へー」ばかりで
我ながら「バカみたいじゃん、俺…」と思ったほどです。まあバカなんですが。

お読みいただいた皆さんはいかがだったでしょう?
皆さんも、きっと「えええ!?」とか「へー」の連続だったのではないでしょうか。


特にデビューアルバム「RAINBOW RAINBOW」における、
1983年晩秋のレコーディングスタジオにパソコンを持ち込んでの試行錯誤。
あの時代にシーケンサーではなくパソコンでアルバム制作が行われたということは、
これが日本初だったかは今となっては定かではありませんが、
『第一陣』に含まれていたことは間違いなく、
TM NETWORK という枠を越えて、語り継がれるべきことであると考えます。


なのに、なぜこんなに基本的かつ重要な話が今まで公になされていないのでしょうか?


しかも他のアーティストと違いTMの場合、
ただ "早くから行われていた" というだけではありません。

もしこれがうまくいかなければ、80年代一世を風靡する
『TM NETWORK =パソコンを駆使したハイテク・グループ』
というイメージ戦略が成り立たなかった可能性すらあります。
それほど当時、パソコンはインカムと並ぶ TM NETWORK のアイコンでした。






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正直に言って今回のインタビューを行うにあたっては、
自分の中でかなりの葛藤がありました。


というのもこのBlog「TM NETWORK の重箱のスミ!」のコンセプトは
対象者と適切な距離をおき『本人に聞かない』『公式を疑う』というものだからです。

誰もが簡単に(それが本当かはともかく)答えにアクセス出来る時代において、
客観的な資料を元に、自分の頭で推理・妄想するという
『過程を楽しむ』ことこそが自分にとっての譲れない柱でした。

つまり「TM NETWORK の重箱のスミ!」において、重要なのは
「TM NETWORK」ではなく「重箱のスミ!」なのです。
(実際このBlogを立ち上げる2週間前までは
 「東映ヒーロー/監督・脚本家列伝」という内容を予定していました)

これが、このインタビュー企画時のみ
「TM NETWORK の重箱!!」とタイトルを変更した真の理由でもあります。




ではなぜ、禁じ手中の禁じ手である『直接インタビュー』を決意したのか。




この一連のインタビューは昨年の11月初旬に行ったものですが、
実は小泉氏との連絡は昨年春の時点でとれていました。
しかしこのような事情でしたので、直接お話を伺うという考えはありませんでした。

一連のインタビューをお読みいただいた皆様であれば納得いただけると思うのですが、
小泉洋というキーマン抜きで 初期 TM NETWORK の実態を掴むことはできません。
ですので30周年という大きな節目とあれば、さすがに公のインタビューが行われるであろう。
その前に自分がしゃしゃり出て、読者の方が受ける新鮮な驚きに
水をさしてはいけないと考え、ご挨拶程度にとどめておきました。


つまり30周年スタートの時点では、かなり楽観的に考えていたわけです。


ところがいつまでたっても、その様子が伺えません。
そのままズルズルと時が過ぎ、秋も深まる中発売された「小室哲哉ぴあ TK編」のページを
めくって失望・落胆した自分は、結局それを購入せず棚に戻しました。
(これは一連のインタビューラッシュの中で、この本の発売が
 当年終わりの方だったというだけであり、「ぴあ」だからという意味ではありません)




この30周年という大きな区切りをもってしても、小泉氏は公に現れないのか。






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いや、現れないだけならともかく、
何よりTMのメンバーが不自然なほど、誰1人語ろうとしません。


"BEE" presents TM VISION(vol.1)より変な日本語






























ただ注意して見ていると、その影は感じとれます。

しかし、例えば秋に出たキーボードマガジンのインタビュー中
「RAINBOW RAINBOW」について木根氏が
『マニピュレーターが普通の人たちでは買えないような良いシンセサイザーを
 いっぱい持っていたので、それを使って作った』と話していますが、
実態は小泉氏インタビューの通り、『持っていた』のではなく
『その時点では素人同然の者が私財を投じて購入しつづけていた』わけです。

木根氏の発言から受ける印象とは、かなりの隔たりがあります。




自分が先に書いた『本人に聞かない』『公式を疑う』という
コンセプトをとった理由のひとつは、まさにこういうことがあるからです。

背景を知らずに言葉だけ抜き出しても、どうとでもとれてしまう。
なにより怖いのは、その結果なんとなく分かったような気になって、
それ以上考えなくなってしまうことです。
(個人的に「小室哲哉ぴあ TM編」はその手の発言の宝庫でした)






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さらにショックだったのは『小泉氏に触れない TM NETWORK』について、
ファンが違和感を抱かないということです。

それどころか小泉洋という名前を知らない。
知っていても "初期のサポートメンバー" 程度の認識でしかない。

もっともこれはファンに責任はありません。
ある時期より小泉氏の存在は、TM NETWORK の歴史から消されてきたからです。
これは小泉氏のインタビューが存在しないとか、
メンバーが言及しないだけの話ではありません。



お持ちの方は確認していただきたいのですが、PARCOライブが収録された
TM NETWORK 初の映像作品「VISION FESTIVAL」のインナーには
ヘアメイク担当者などのクレジットまできちんとされているのに、
あれだけ深く関わられ、なおかつ映像にも写っている小泉氏がクレジットされていません。




























つまり小泉氏が TM NETWORK を離れる以前から、すでにこの流れはあったわけです。
(「VISION FESTIVAL」発売 1985年8月)




予告編でミツカワは『ここまで表に現れないという事は、
そこに何かしらの事情があるという事は推測できる』と書きましたが、
これは相当、根が深い問題であると今更ながらに思い知りました。






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しかしその『事情』を暴き立てるのが、このBlogの目的ではありません。

今回、僕が行ったインタビューの目的は、
・小泉洋は単なるサポートメンバーではなかった。
・それどころか、作品の核となる部分に関わっていた。
・TM NETWORK は、実質4人で動いていた時期があった。
という事を、まずはネット上に書き残しておくことです。

インタビューをお読みいただけば分るように、この時期については
PARCOライブで初披露された「Quatro」という曲のタイトルが
全てを物語っているでしょう。

この点については、当初の目的を達する事が出来たと自負しております。





しかしこれ以上の事となると、やはりこのような正史に残らない個人ブログではなく、
公式のインタビューとして公のメディアで語っていただきたい。





他のアルバムに比べ、初期の2枚のアルバム+ミニアルバムは
その制作実態がどうもはっきりしません。
いつも中心の欠けたドーナツ状の話ばかり聞かされてきたとミツカワは感じています。

「CHILDHOOD'S END」だけに絞っても、
その後のコメントでは『迷いの時期だった』の一言で片付けられていますが、
実際は当初のコンセプトが二転三転し、

 ・録音したサポートミュージシャンの演奏を全部消去して一から作り直す。
 ・制作の進め方にあたって、小坂プロデューサーとの軋轢
 ・アルバム完成後もキャッチーさに欠けるとレコード会社から判断され、
  別にシングル用の曲を作る事を要求される。

など、次々と腰砕けの状態になり結果的に「作品集」といった形に収まった様子が伺えます。

また、このアルバムが全く売れていないことに動揺した小室氏の脳裏には
"TM NETWORK 以外の選択肢” が浮かぶこともあったようです。



この辺を丹念に取材していけば、作られたストーリーに守られたアイドルではなく、
ドラマティックで酸いも甘いも噛みしめた
アーティスト(Human)としての TM NETWORK を歴史に刻むことが出来るでしょう。



しかし、その大きなチャンスになったかもしれない NHK-BS『MASTER TAPE』では、
当初、『RAINBOW RAINBOWを紐解く番組』との企画案が出されたものの、
小室氏に即、却下されてしまったそうです。






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ミツカワとしては、とにかく小泉洋・小室哲哉・木根尚登・宇都宮隆といった方々に
初期の作品群の制作実態、葛藤、その悪戦苦闘ぶりを公の場で語ってほしい。


今回の小泉氏インタビュー中にも、音や人名など何らかのキーワードがあれば、
とたんにあやふやだった記憶が鮮明に蘇るという場面が多々ありました。

さらに今回は「小室哲哉の旧友としての小泉氏に焦点を絞る」と宣言したように、
作品に関する具体的な作業工程などはあまり深くお聞きしませんでしたが、
やはり音色の話となると、ものすごい反応速度で答えが返ってきました。

この様子を見ていると、インタビュー初回冒頭に書いたように、
一人一人の記憶が曖昧でも皆で話せば確かなことが浮き彫りになってくるだろうと感じます。


そのなかには先に書いた TM NETWORK という枠を越えた貴重な出来事が
(技術的なことだけではなく)まだまだ含まれているはずです。






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ですので、これをお読みいただいているファンの方々も
『ファンであるならばこそ』このような中途半端な採り上げ方で満足されず、
ぜひ本当のことを知りたいと声を挙げていただきたいと思います。


デビュー前の小室氏が、自身で所有していた廉価なシーケンサーで作ったと思われる「INTRODUCTION [ANY TIME]」(TMN GROOVE GEAR 収録)。

この曲における、牧歌的とさえ言えるシンプルなシークエンスに対し、
冒頭から16分音符が雪崩を打つように押し寄せる「1974」を聴けば、
デビュー時における小泉氏の果たした役割の大きさは一聴瞭然です。






ミツカワとしては、
どんな事情があれ『作品にかけた想い』そのものは否定されるべきではないと考えます。






































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最後になりますが、お話を伺うだけでなく自宅で手料理をふるまっていただいた小泉洋氏。

また、資料確認から相談まで付き合ってくれた
・青い惑星の愚か者
・GAUZE
・かっと
各氏に感謝いたします。









さて次回からは、通常の「TM NETWORK の重箱のスミ!」に戻ります。
個人的に慌ただしい時期に入るので、更新が遅れます…と書こうとしましたが、
現状でも十分遅れている(ほんと、ごめん)ので、さして変わらないと思います。

今後とも気長にお付き合い下さい。









2015年2月28日土曜日

祝!30th【小泉洋氏インタビュー / その3】☆ 幼年期の終り



ミツカワです。


さて今回も、このBlogは「TM NETWORK の重箱のスミ!」ではありません。

                    です!

いつもとは体裁が異なりますことを御了承下さい。



昨年末より3回に渡って御送りしてきた
TM NETWORK 30周年記念・特別企画【小泉洋氏インタビュー】

いよいよ今回でひとまずの区切りとさせていただきます。
こちらの冒頭にある『読者の方へのお願い』は
重要な注意事項を含みますので、必ず目を通してください

またここまでのエントリーを読まれていない方は、
より理解を深める為、是非そちらから御覧ください。



なお今回の「Dragon The Festival Tour」に関する項目については、
こちらのエントリーを先に御覧いただくと、
より(胃の痛くなるような)臨場感を味わうことが出来ます。
ぜひ、合わせてお読み下さい。




           では、大変お待たせいたしました。
       本邦初!【小泉洋氏インタビュー】第3回スタートです。
         (文中の注釈はミツカワが付け加えたものです)







♫ C-Dragon Project ~もうひとつの Network 〜


⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ さてセカンドアルバムの話をうかがう前に、ひとつお聞かせください。
     この時期、小泉さんのクレジットには「C-Dragon Project」とありますが、これは?
◯ ああ、それは俺と小室とでやってたユニットみたいなもん。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ え?これ小泉さん個人のものではなかったんですか!
◯ そうだよ。あの頃だと哲っちゃんも TM じゃ稼げないわけでさ、言葉は悪いけど
日銭を稼ぐというか。そこで俺と哲っちゃんとでCMとかアニメの仕事をやってたのが
「C-Dragon Project」なわけ。アニメってあれだよ、主題歌とかじゃなくって、
画面に合わせてジュワーンとかそういうのね。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ へー。なんで "C-Dragon" なんですか?
◯ 哲っちゃん、ドラゴン好きだからさあ(笑)
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯(大笑い)
◯ ほら当時、シードラゴンって流行ってたじゃん。あれから採ったはず。
ただそれだと普通は「C」じゃなくて「Sea」だけど、
あの頃コップに入れてプカプカさせるおもちゃあったじゃん?
あの形(アルファベットのC)から採って C-Dragon だったはず。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ なんだか、えらく単純な話だったんですね(笑)


      (上段「CHILDHOOD'S END」・ 下段「Twinkle Night」より)












♫ CHILDHOOD'S END 〜音に込めた色艶〜


⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ ではセカンドアルバム「CHILDHOOD'S END」の話をお聞かせください。
◯ セカンドは一番、俺の色が出ているアルバムだね。
このあたりが一番、俺の影響がある時期じゃないかな?
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ あ、そうなんですか?!素人目にはファースト(アルバム)の方がピコピコしてて、
     小泉さんの手がける範囲が広いように思ってましたが。
◯ ファーストは実験というか、テクノロジーへの挑戦がメインだったような気がする。
毎日毎日、あんなことは出来るか?こんなことは出来ないか?って。
それはうまくいけば宣伝にも使えるしね。
だからファーストは革新的っていう意味では価値が高いと思っている。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ はい。
◯ だけど一応それはファーストで消化された形で、セカンドを作るってなったときに、
俺なりの思いがあって、1ヶ月ほど一人でヨーロッパ旅行に出かけたんだよ。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ …と言いますと?
◯ 1年目は技術的なこともそうだし、プロとしての足場をつくるという点においても、
とにかく小室も俺もがむしゃらに突っ走っていたわけだ。
だけどどうやらセカンドを作れる、作らせてもらえるという周りの状況が見えて来た時に、
その気持ちの余裕が、当たり前のことなんだけど『いい音楽を作りたい』って方に
向かったんだよね。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ なるほど。
◯ それで俺も当時は若いしバカだからさ(笑)『シンセの限界を試したい』なんて
カッコいいこと考えて、まずは本場のバイオリンとか
いろんな生の楽器の音に触れてこようと思ってヨーロッパ行ってきたの!
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ あ、単なるバカンスじゃなかったんですね?!
◯ で、帰ってきて哲っちゃんと話して、もう任せろ!みたいな。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ へー。よく『TMは3枚目で路線変更をした』と言われてますが、
     ファーストとセカンドでもかなり違いますよね?肌触りというか…。
◯ ファーストがテクニカルな挑戦という側面があったのに対して、
セカンドは "音楽的” だよね。ハートフルというか。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ ファーストでは「1974」のピコピコに代表される、
     これ見よがしのテクノロジーのようなものが、セカンドでは姿を消していますよね。
◯ 相変わらず革新的なことはいっぱいやってるんだけどね。
馴染んでいるというか、より音楽的というか。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ ああ、そうですね。
◯ セカンドで俺がとことんこだわったのが “色気” だったんだよ。
生楽器のもつ色気というか…わかるよね?
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ なまめかしい感じ、ですよね。
◯ そうそう、そういう艶っぽさみたいなものを重視したんだよね。
変な表現だけど "シンセでできた生楽器" というか。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ なるほど。
◯ むこうでバイオリンなんか聴いてみて「うわーこんなにピッチが波打ってるんだ」
とか分って、シンセもあえてピッチをずらすようになったり、ハイハットも微妙にずらして
人間味をだしたり。TM じゃない別の現場では、やってる途中ディレクターに
「大丈夫?そんなことやって」とか「ちゃんとやってよ」とか言われたこともあったよ。
でも出来上がったもの聴かせたらみんな納得して。
結局その「色気のある音」っていうのが、その後の俺の武器になっていくんだよね。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ 個人的な話で恐縮ですが、僕は TM のアルバムでこの「CHILDHOOD'S END」が
     一番好きなんです。だけど、じゃあどの曲が好きなの?と問われても答えられない。
     ただただ全体を包む空気感のようなものが好きだったんですが、 たしかに
     ファーストと比べても “色気” や “艶” という意味では、セカンドは圧倒的ですね。
◯ 圧倒的だよね。



⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ さて、セカンド制作時のインタビューで小室さん、木根さん共に、
   「曲が足りない、曲が書けない」とおっしゃってたんですよ。
     結局、昔作った曲を引っぱり出してきたとか。
◯ うーん、日常的に哲っちゃんと俺とでジュンアンドケイのスタジオ借りて
デモは作ってたはずだけどね。小室から「こんなの作ったんだけど、どう?」って、
いろいろ渡されたこともあったし、30曲くらい入ったデモテープ持ってたのも憶えてるし。
…うーん、その辺の事情はよくわからないな。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ その反面、ライブでは「17 to 19」など、
     新曲をどんどん作って演奏していたわけですが、
     このライブ曲をセカンドに入れるという話はなかったんですか?
◯ うーん、どうだったかなあ、ちょっとそこらへんは憶えてないなあ…。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ そうですか。でも贅沢ですよね、
     ライブ用に何曲も作りながらレコーディングしないって。
◯ うん…いや、責められても困るんだけど…。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ …いやいや責めてません責めてませんって!『贅沢だ』って言ってるんですよ(笑)



⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ そういえば「ELECTRIC PROPHET」は当初、セカンドの柱になる予定だったのが、
     曲が長過ぎることや、アルバム・コンセプトの変更から没になったそうですが、
     レコーディング自体はしたと小室さんがおっしゃっていたんですが…。
◯ それもよく憶えてないけど、デモをレコーディングしたってことじゃないかな?
その時点で長いって判断も出来るし。でも後で『どうしても作品として世に出したい』と
いうことになって、じゃあミニアルバムでってなったんだと思うよ。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ では話が前後しますが、本番(ミニアルバム「TWINKLE NIGHT」)の方は?
◯ 「ELECTRIC PROPHET」はかなり頑張った記憶がある…シンセとか、
…シンセ頑張ってるよね?あれ。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ ええ、頑張ってます。頑張ってますよ!










♫ 愛をそのままに ~音色もそのままに~


⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ さて小泉さんにお話を伺う以上、この曲は避けて通れないんですが、
     アルバムの最後に収録されている「愛をそのままに」という
     木根さんの曲がありましたよね。
◯ ん?
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ イントロの音色で、木根さんがモグワイの…
◯ ああ、あれね!俺はあれでいいって言ったのに、木根は最後になって
ヤダヤダってごねたの。怖い怖い怖い!って。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ ちなみに小泉さんは別にモグワイの声を意識して作られたわけではないんですよね?
◯ うん、ないよ別に。あの音は初めから自分の中にイメージとしてあって、
あれは PPG(前エントリー参照)で作ったんだけど、俺としては凄く素晴らしい音だと
思ってんだけど、木根は怖いって言うのよ。…まあ「グレムリン」流行ってたしねえ(苦笑)




        (注)映画「グレムリン」日本公開1984年12月8日
   なんのことか分らない方はこちらのエントリー中のスキャン記事をお読み下さい。




⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ ちなみにこの曲に限らず、木根さんが自分の曲に対して、
     こうして欲しいってありました?
◯ 無かった。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯(笑)
◯ たぶんブツクサ言ってても、小室と俺とで黙殺?(笑)
で、哲っちゃんが「木根!小泉がこう言ってんだからいいじゃん!」て。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ それ、悪者にされてません?(笑)
◯ まあ、今なら『木根がそうしたいんだったら、そうしたらどう?』って言うんだろうけど、
当時は俺も若かったから『いいじゃん、こっちの方が!』で終わりっ!(笑)



⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ 実は、この曲中に当時から大好きだった音がありまして…これなんですけど。
   (0:44~0:47にかけてセンターで鳴る下降音)しかもこれよく聴くと
     まるで実音より先に、エコーの方が先行して左側で鳴っているように聴こえますね。
◯ まあ、この時はいろんなことやってたよ。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ それはシンセ単体ではなく、エフェクターから部屋鳴りから含めてということですね。
◯ そうだね。もうやりたくないね(笑)
よくあんな面倒くさいこといろいろ考えてさあ…、極限だったと思うよ。






♫ FAIRE LA VISE ~受け継がれるロマンス~


⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ 前年、ちょうど「1974」がシングルカットされた日に、
     大江千里の「ロマンス」という曲が発売されて、これにも関わられてますよね。
◯ あ、それやったなあ。大江の千ちゃんはウチの多摩の実家にも何度か遊びに来てたよ。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ そうなんですか。で、その「ロマンス」のイントロで…なんて言ったらいいんだろう…
     こうブリキをダダダダッと叩いた様な…
◯ ああ、やったやった!あれはカーンと鳴らした音をピッチチェンジャーを使って半音だかに
下げた音出して、それをディレイに突っ込んだんだよ。で、それをまたピッチチェンジャーに
返してやると、どんどんどんどん無限に下がっていくじゃない?
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ ああ、じゃあ元になる実音は最初の "カーン" だけなんですね。
◯ そうだね。それを過剰にループしないようフィードバックの量を巧い具合に調整してやると
ああいう音になるんだよ。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯「FAIRE LA VISE」のイントロ(0:07~0:10)でも似た様な音がしますね。
     こちらの方がずっとクリアで洗練されてますが
◯ ああ、あれもそう。もう当時は思いついたらやってたからねえ(笑)
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ これって一発ネタというか、これだけのためのものですよね?
     この一発ネタのためだけに…
◯ そうそう、それしか使えない(笑)もうこの頃はいろんなこと考えて、
ああやったらどうだろう?こうやったらどうなるんだろう?ってやってたよ。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ そりゃ、時間かかりますよね…そんなことしてたら…。
◯ う~ん、そうだね~。よくやってたねえ~(笑)


    (注)小室氏は、翌年「GORILLA」発売時のインタビューで、
       「I WANT TV」~「Come On Let's Dance」間のSEについて、 
       この音を ”真似てみた” とコメントしている。






♫ 永遠のパスポート 〜逢う度に見つけたい〜


⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ 僕、PARCOライブでの「1974」などのBass音が大好きなんですが、
     この曲のBass音も同じ系統ですよね。この "音色とフレーズのハマり具合" というか
     相乗効果を聴くだけでも、失礼ですが先程(前エントリー)おっしゃた
   『デビューから1年間での成長』というのが伝わってきます。
◯ うん。俺、Bass に関してはその後の仕事でも定評があったのよ。ふくよかな音でありつつ、
歌い手さんそれぞれの声質を邪魔しないように倍音をコントロールしたりとかね。
倍音男って呼ばれてたもん(笑)
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ ば、倍音男(笑)
◯ 膨らみのある暖かい音が好きだったから、SynthBass に関しては DX7 は使わなかった。
DX7 使うと芯は出やすいんだけど、無機質になるような気がしてね。
たしかあの頃は、Oscar のデジタルの部分と OB-8 を混ぜるのが多かったかな。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ Oscar!うわー懐かしい…。

















            Oxford Synthesizer Company【Oscar】
       ぶっとい音に定評のあった、アナログ・デジタル Hybridの名器。
          日本には限られた数しか入ってこなかったそう。
    名器でありながらボディーの各部がゴム製という "変なシンセ" でもありました。





⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ 一昨年の話になるんですが、小室さんがTwitterで、
   『今まで作った音色で一番好きな音色はどれですか?』と尋ねられて、
     自分一人で作ったわけではない、と断ったうえで、
   「永遠のパスポート」間奏のソロ音色をあげていらっしゃったんですが…。
◯ ん?どんなのだっけ?
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ (ミツカワ持参のスマホ用スピーカーを付けたiPodで試聴)
◯ (しみじみと)お、懐かしいなあ。あ、この部分は DX7 だ(一緒に鼻歌を歌う)
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ (早送りして1番の終わりへ)ここからですね。
◯ あ、これか~!Oberheim(OB-8)だな。
……でも『良い』ってほどの音色でもないじゃんねえ?
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ いやいや、作った御本人を目の前にして
   「そうですね」なんて言えるわけないじゃないですか!
     ……でもですよねえ?他に凝った音色はいくらでもあるのに…と思ったんです。
◯ ちゃんとスタジオのでっかいモニターで鳴らすと凝ったことしてるのかな?
でも今聴いてるかぎりじゃ、普通のフレンチホルンの音を OB-8 で作っただけというか…。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ なので音色そのものというより、その時のシチュエーションだとか、
     何か他の理由があるのかな?と考えたんですが。
◯ うーん、どうだろうなあ。そこは俺にはわからないな。


◯ たださ、音楽ってつまるところ “感動” じゃない?
理想論としては、音色があってフレーズがあって、
それを弾いたときに、鳥肌が立ちたいというか…。
それはいつも思っているから、なにかしらのタイミングで
なにかとリンクすると、自分の中で貴重な “響き” になるかもね。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ なるほど。
だから俺がこだわってた "音の色気" っていうのもそこなんだよね。












♫ Dragon The Festival ~Come on Dragon the Festival!~


⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ この年の秋には、いよいよ TM NETWORK 初めての本格ツアー
   「Dragon The Festival Tour」がスタートしましたね。
◯ この時はもう、始まる前から極限だったよ。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ なんとなく予測がついて、聞くのが怖いんですが(笑)どういうことでしょう?
◯ 舞台監督にしろ誰にしろ(パソコンを使ったライブなんて)初めてのことで、
何もわかんないんだよ。そうなると俺に聞いてくるしかないじゃん?
哲っちゃんにしたってパソコンに詳しいわけじゃないから、話してても
「ごめん洋ちゃんさぁ、それ出来るかどうか舞台監督と相談してみてくんない?」てなるし。
(パソコンの)設置場所を何処にするのか?とか、振動はどうだ?電圧は?とか…。
いろんなこと想定して照明だろうが舞台装置だろうが、どの打ち合せにも
俺は出なくちゃいけない。他のメンバーみたいに、自分に関わるところだけじゃないから。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ うわー…。
◯ そのうえ当然、メンバーとの音に関する打ち合せもあるし、
他にもワタルちゃん(ドラム担当の山田亘氏)との同期演奏に関する連携の打ち合せ…、
なんてことやってるうちに結局、全部に首つっこむハメになっちゃってさ。
ほんと寝る暇が無いっていう。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ 当時のメンバー間でも『小泉=いつも寝てない』って認識だったようですね。

























             1985年10月17日 広島公演楽屋にて






⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ ではツアーがスタートしてからの話ですが、この時のことについては僭越ながら、
     この重箱Blogでも書かせていただきました。
◯ 読ませてもらってさあ、ほんと嬉しかったよ。
『ああこいつ、俺の苦労わかってくれてるな』って。

◯ だってあれ、普通の人が受けるプレッシャーじゃないよ!
ばーって何百人もいる観客の前で『全てはあなたのそのパソコン次第ですよ』って。
今の(現代の)じゃなくて、当時のパソコンだからね!
なのに、エラーはだめ、もちろんフリーズもだめですよって、
正直『いや、そんなの俺に言われても』って言いたくもなるよ(笑)
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ うわー、聞いてるこっちまでドキドキしてきたー。
◯ 照明のせいでMIDI周りが飛んじゃうとかさ、何が起こるかわかんない状況で、
そんなのプロもクソもない。いかんともし難い。…でも何かトラブルが起こったら、
事情の分らない人から見たら『小泉さんのパソコンが止まっちゃったみたいよ』ってなるし
『え、俺? 俺のせい?』てさ。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯(笑)
いや、電気周りは俺のせいじゃねーよ!東京電力に言ってくれよって!!(大笑い)
その後はMIDIも含め、どんどん進歩して安定していったけどさ、当時はねえ…。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ ちょうどあの80年代初期から中期って加速度的にテクノロジーが進歩して、
     先月出来なかったことが今月には出来るようになってる、みたいなことが
     連続して起こってましたよね。それだけに今となっては当時の苦労って
     なかなか伝えづらい。聞かされる方も、理屈は分っても体感しづらいでしょうね。



⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ ちなみに一番緊張する瞬間ってどの辺でした?
◯ 暗転になってプレイボタン押す瞬間。タイミングひとつとってもコンサート全体の流れに
かかってくるわけで「今かな?まだかな?…よし、今だっ!」てボタン押しても
『えええ!動かない?!』とかね。まあ幸い、実際にはそんなこと起こらなかったけど…。
でもやっぱりキツいよ、あれは。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ ああ、そうか。トラブル以前に "何も起こらない" って可能性もあったわけですね!
◯ うん、怖いけどね。最後は神頼みだよね。

◯ そういう意味じゃ何度か会ったけど松武さん(注)なんか尊敬するよね。
あの時代、すぐにピッチは狂うは、データーをカセットテープからロードしたりとか。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ それはもう、ミュージシャンとしての尊敬じゃないですよね(笑)
◯ そうそう、『同じ胃が痛い思いをしましたよね、先輩!』ていう(笑)


      (注)4人目のYMOと呼ばれたプログラマー・松武秀樹氏。
         TM NETWORK「GORILLA」にも参加している。
























    TM NETWORK における元祖 "要塞” 小泉ブース 1985年10月1日 札幌公演より







◯ でも本当に冷や汗かいたトラブルは一回だけだったよ。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ それはどういった?
◯ データーが飛んじゃったんだね。演奏中に。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ あ!曲の途中で?!
◯ そう!でも…やっぱり若かったんだね(笑)前もってワタルちゃんに
『何かあっても16小節以内に俺が合わせて復帰させてみせる!』って言ってあったの。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ で、それが実際に起こったと。
◯ 突然、曲の途中で同期が止まっちゃって生演奏だけになって。急にクリックが止まったから
ワタルちゃんも『何かが起きてる…何かが起きてる…』って思いながらドラムを叩いてて。
でもそこでワタルちゃんと目を合わせてて、2番の頭からぴったりポン出しで乗り切ったの。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ へー。
◯ つまり、データーを再度読み込んで、2番の頭まで移動させて
ワタルちゃんのドラムに合わせてマニュアル・スタート!
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ それはもうコンピューターの生演奏ですね!
◯ あとでワタルちゃんと2人で盛り上がったね。
『凄かったねー、目配せで分った?』『分ったよ!』って。



⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ そういえば当時のドラマーだとヘッドフォン(でクリックを聞きながら演奏すること)
     を嫌がる人いましたよね。
◯ だろうね。YMOくらいだよね。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ 山田さんは初めからヘッドフォンに抵抗はなかったんですか?
◯ うん。そこはとてもフレキシブルでワタルちゃん…
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ 
◯ ワタルちゃん、いい奴だし(笑)
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯(笑)




◯ 怖いといえば、マイクスタンドが飛んできたこともあったな。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ ああ、それも聞きたかったんです!たしか名古屋公演でしたっけ?
◯ ウツがマイクスタンド振り回したらすっぽ抜けて、俺のキーボードに当たったらしいよ。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ 小泉さん自身は大丈夫だったんですか?
◯ ああ、俺には当たらなかった。
キーボードも問題なかったから、ライブの最中には気付かなかったんじゃないかな?
あとから、見てたファンの人に聞いて初めて知ったくらいで…。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ そうだったんですか(注)
◯ まあ、ライブなんて何事もありうるからさ。
もうあのときは俺、データーとか音色の呼び出しだとかで余裕無いから…
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ 当時よくおっしゃってた『27秒の壁』ですね(こちらのエントリー参照)




 (注)と、おっしゃっていますが、このエントリー執筆のため資料をあさっていると
    こんな記事が。小泉氏はしっかりと命の危機を察知していらっしゃいました。
























⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ しかし、余裕無いとおっしゃりながら、演奏もされてましたよね?
◯ そうね(笑)ていうかバカだよな、俺!(大笑い)
『同期やってんるんだから勘弁してくれ』って言えばそれで済む話なのに、
「1974」もハモってたし俺、♪~チャラッチャーって。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ え、あのイントロのフレーズを?「1974」って打ち込み的にも山場じゃないですか!
◯ おまけにあのツアーではコーラスも歌ってたはず。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ はい、それは映像に残ってますよ。
◯ おかしいよね。これだけコンピューターで一番大事なところで、データー飛んだら
おしまいのところで、コーラスやって、キーボードも弾くってバカだよね(笑)
なのに『やれる?』って聞かれたら『やれる!』って答えてたんだよね。
他にも音色呼び出すだけじゃなくって、哲っちゃんが弾いてるシンセの音に
リングモジュレーターかけてギュワーンって歪ませたり。



⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ このときは組曲もやりましたよね。組曲「Vampire Hunter D」
◯ やったね。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ あれは打ち込み無しで、小室さん・小泉さん・白田朗さんの3人による
     シンセ・オーケストラ(生演奏)ですよね?
◯ あ、あれはそうだと思う。



⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ 白田さんは純粋にライブのサポートとして、いらっしゃったんですか?
◯ あ、トンジ(注)はそう。哲っちゃんが元々付き合いあったみたいね。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ フレッシュサウンコンテストでも小泉さんと一緒にサポートされてましたよね。
◯ あの時は同期使ってないからね。手(人手)が無いとどうしようもないし。
トンジはとにかく凄いのよ!
だからツアーでも彼がシーケンサー代わりのフレーズを弾いてるの。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ なんちゃってシーケンサーですね。
◯ そうそう、シーケンサーモドキのフレーズを
手弾きでやってくれるってことで来てもらった。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ では白田さんはコンピューターなどテクニカルなことは関与せず、
     純粋なキーボーディストとして参加されていたんですね。
◯ うん。


     (注)白田朗氏の愛称。当時のファンからもそう呼ばれていました。



⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ ちなみにこのツアーでのセットリストで、
     小泉さんとして一服つけるというのはどの辺りだったんでしょう?
◯ やっぱりその「Vampire Hunter D」じゃない?
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ でも演奏はされてるんですよね(笑)
◯ うん(笑)



⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ ツアーが始まって以降も、色々変更はありましたか?
◯ あったよ。哲っちゃんの(ショルダーキーボードによる)ソロのギターみたいな音って、
ツアー後半ではチューブ(真空管アンプ)にしたはず。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ そこらへんのエフェクターも含め、全部小泉さん側でコントロールされてたんですか?
◯ うん。哲っちゃん側でへたに音色を変えちゃうと、MIDIの流れが混乱しかねないからね。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ では、小泉ブースで一括して管理すると。
     この重箱Blogでも以前書かせていただいたんですが、
     それはすべて小室さんの背中を見て、それだけの判断だったんですよね?
◯ うん。仲良かったというより、もう兄弟みたいなもんだったからね。後ろから見てて
なにしたいか、例えば『あ、ここでもっと歪んだ音でソロっぽく弾きたいんだな』
とか分ったし、そしたらこちらでパッと切り替えて…それで何の問題もなかったよ。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ へー!ちなみに例の "27秒" というのは本番の電圧や振動で変動しなかったんですか?
◯ あ、それは大丈夫だった。



⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ このツアーでは短い期間の中で、曲順変更を2回程してますよね。
◯ したね。やっぱり実際やってみると、ここはこうしてもらわないと困るっていうのが、
俺なりにあって。ここはもう少しウツがMCで引っぱってくれないと
(次曲のデーターとサンプラーの音色ロードが)間に合わないとかね。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ じゃあ舞台監督ではなく、小泉さんの要求だったんですか?
◯ あ、もちろん舞台監督側から演出的な意味もあったろうけど、俺側からも
『ごめん、あそこ(曲順)入れ替えてくれないと無理!』みたいな要望は出したよ。
今の段取りだとギリギリすぎて冷や汗かいたりとかあって『問題ありっ!』みたいな(笑)
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ このときは途中で前後の曲に関係なく、木根さんの短いアコギ・ソロが入るんですが、
     それも場繫ぎですよね?
◯ そうだろうね。もうこのときは音色切り替えだけじゃなくって、哲っちゃんが
ショルダーキーボードに持ちかえる時間とかまで、全部秒単位で計算してやってたしね。



⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ こういうことを同業者の方がみて何か言われませんでしたか?
◯ なにをやっているかが分る人にはね。
その後も突然、他の現場に呼ばれて『小泉君がいればなんとかなると思ったから』なんて
言われたことも何度かあったし。とにかくあの頃の俺は神がかってたよ(笑)
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ 単なる技術屋としてではなく、ということですね。
◯ 包括して、ってことだろうね。










⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ 最後にお聞きしますが、もし今、同じ事やれっていわれたらどうします?
     当時の機材で当時のサウンドを再現!みたいな。
◯ ヤだよっ!!!
まかり間違ってそんなことになったら、どんなに金積まれても逃げるよ俺は(大笑い)
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯(大笑い)
いやだって、あれはおかしいって…。胃は痛くなるしハゲるしさあ…。
俺も若かった。もう二度とやりたくない。勘弁してください(笑)
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ 今度ハゲたら、おしまいですもんねえ…。
◯ ほんと、そうだよ(しみじみ)








         【小泉洋氏インタビュー / その3】ここまで








別エントリーとして「小泉氏インタビュー・あとがき」を用意させていただきましたので、
引き続き、そちらを御覧ください。