2015年3月15日日曜日

30th特別企画【小泉洋氏インタビュー】を終えて



本文でも語っていますが今回採り上げた「CHILDHOOD'S END」は、
ミツカワにとっての Favorite Album であります。
それゆえに、このアルバムだけでしか味わえない雰囲気の正体はなんだろうと
長年考えていました。

今回、その疑問に対し小泉氏は明確な答えをくださいました。
音の "色艶” です。

確かにサードアルバム以降のTMは、色気や艶といった部分はブラスセクションや
サックスソロなどの生楽器に割り当て、シンセはむしろ正反対の無機質で
立ち上がりの早い機械的な音を前に出すようになっていきます。




これはターゲットが定まっていなかったということと表裏一体かもしれませんが、
セカンドは他のアルバムに比べ、歌詞だけでなく
サウンド自体の対象とする年齢が少し高めのような気がします。

だとすると、その要因の1つは小泉氏の存在だったのではと感じました。

また、ファーストアルバムとも異なるこのアルバムの雰囲気から、
当時のミツカワは TM NETWORK = シティーポップス と認識していました。

これは木根、宇都宮両氏にとってもスピード・ウェイの資産を生かせる、
TM NETWORKとしては珍しく、企画先行ではない(これについては後で述べます)
むしろ自然体に近い "居心地の良い" 作風だったのではないでしょうか。




小泉氏の話からは離れますが、ミツカワは以前、
セミプロ時代の小室氏とバンド仲間だった方と同席させていただく機会がありました。

この方のお話では、ある時小室氏が誰に言うでもなくボソッと
「角松くんにはしてやられたよなあ…」とつぶやいたことがあったそうです。

はじめはセミプロ時代、バックバンドの仕事に関しての話だと思い、
気に留めていなかったのですが、どうも頭に残り、
後からその発言時期を確かめてみると、セカンドアルバムの頃だとのこと。

つまりファーストアルバムにおけるファンタジックなエレクトリックポップス路線が
空振りに終わり、行き先に迷っていた小室氏としては
シティーポップス路線も視野に入れていた、ということでしょう。
しかしその席にはすでに角松敏生や村田和人などが座っていた…。
そこから出た発言だと思われます。



そう考えると本人にとっては不本意かもしれませんが、
TM NETWORK の作品の中でセカンドアルバムは(結果的に)唯一、
"プロデューサー・小室哲哉" ではなく、
"アーティスト・小室哲哉" の存在が表に来ている作品ではないでしょうか。

常に「普遍的なものより、その瞬間・時代を切り取る音を作りたい」と言い続けている
小室氏が、セカンド発売時のみ
「今すぐ売れなくても、末永く評価されるエバーグリーンな作品になっているはず」
と語っていたのが象徴的です。
















































♫ Twinkle Night ~魔物たちの夜


さて小泉氏はご自分の作り出す音を、色気や艶と表現されましたが、
ミツカワはもう1つ感じるものがあります。

それは “魔性" です。

特にミニアルバム「Twinkle Night」は元々、映画「吸血鬼ハンターD」からの
派生商品という側面があり(注)この作品でしか味わえない独特の雰囲気を携えています。

 (注)「吸血鬼ハンターD」発表当時、小室哲哉は
    『ここから3つの流れ(サントラ・シングル・イメージアルバム)ができる』と発言。
    このイメージアルバムの企画が、その後「Twinkle Night」になっていったようです。




特に「Electric Prophet」における最初の1小節。

たった1小節で聴く者をどこか異世界へ引きずり込む “鬼気迫る" 何かを感じます。
これ以降の曲を考えても、この1小節に匹敵するような「引きずり込む」曲はあまり
見当たりません。「A Day In The Girl's Life」「Beyond The Time」くらいでしょうか?
ただその2つも “魔性" とはまた違うと感じます。

そういう意味で「Electric Prophet」は曲自体はTM NETWORKの代表曲ですが、
その音色や音の組み立てはむしろ異色作ではないでしょうか。
発売当時、ライブでの素朴なフォークロック調のアレンジに慣れ親しんでいたファンから
拒否反応が出たのもこの辺だと思われます。

セカンドアルバムにおける音色も、既に魔性を感じさせるものがあります。
「愛をそのままに」での木根氏の不安は、その匂いを嗅ぎとってしまった故かもしれません。



歌詞、メロディー、アレンジではなく、
『音色』そのものに主張・世界感があるとも言えるでしょう。



小泉氏はシンセサイザーオペレーターという職業の特異性について
「機械的な知識だけでは出来ないし、アーティストとしてのイマジネーションだけでもダメ。
 両方が無いと出来ない」とおっしゃっていました。

たった1年でシンセサイザーという電子楽器から、
この色気・艶・魔性とも言える音色を生み出すに至ったこの時期の小泉氏をみると、
技術面は1年のキャリアでも、アマチュア時代からの音楽活動によって磨かれた
アーティストとしてのイマジネーションが、その成長を大きく促したのだと感じます。




結局このミニアルバムが TM NETWORK における小泉氏最後の作品となるわけですが、
この作品はたった4曲しか収録されていないにも関わらず、
その完成度は当時から非常に評価が高く、シングル「Your Song」と合わせ、
第一期 TM NETWORK の総決算と呼べるでしょう。

アルバム製作にあたってのヨーロッパ旅行から始まり、
セカンドアルバム ~ ツアー ~ ミニアルバム と
小泉氏が最後の最後まで手を抜かず、全力投球されていたことが伝わってきます。



















































♫ あとがき ~金色の夢の肌触り~


昨年末から3回にわたってお送りした
『30周年特別企画・小泉洋氏インタビュー』いかがでしたでしょうか。

手前味噌になりますが30周年を迎えた時、僕が期待したのが
この様な内容のインタビューでした。
まずは一区切りつけることができて、ほっとしています。

全3回、それぞれ
・小泉、小室両氏の出会いから、当時のバンドマン達の熱い思いと焦燥感。
・ファーストにおける悪戦苦闘
・セカンドでのこだわり、ツアーでのフル回転。

『小泉洋』と言う新たな切り口を与えていただいたことで、
今までとは違う TM NETWORK の側面が見えてきました。





ここではこのインタビューを行うに至った自分なりの動機・経緯など、
最後にちょっとだけ僕自身の気持ちを書かせてください。






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インタビュー当日の別れ際、小泉氏はすまなそうに
「たいしたこと話せなくてごめんね」とおっしゃいました。


しかしその小泉氏にとっての「大したことのない話」。
ミツカワは文章化している際、あまりにも自分の発言が「えええ!?」とか「へー」ばかりで
我ながら「バカみたいじゃん、俺…」と思ったほどです。まあバカなんですが。

お読みいただいた皆さんはいかがだったでしょう?
皆さんも、きっと「えええ!?」とか「へー」の連続だったのではないでしょうか。


特にデビューアルバム「RAINBOW RAINBOW」における、
1983年晩秋のレコーディングスタジオにパソコンを持ち込んでの試行錯誤。
あの時代にシーケンサーではなくパソコンでアルバム制作が行われたということは、
これが日本初だったかは今となっては定かではありませんが、
『第一陣』に含まれていたことは間違いなく、
TM NETWORK という枠を越えて、語り継がれるべきことであると考えます。


なのに、なぜこんなに基本的かつ重要な話が今まで公になされていないのでしょうか?


しかも他のアーティストと違いTMの場合、
ただ "早くから行われていた" というだけではありません。

もしこれがうまくいかなければ、80年代一世を風靡する
『TM NETWORK =パソコンを駆使したハイテク・グループ』
というイメージ戦略が成り立たなかった可能性すらあります。
それほど当時、パソコンはインカムと並ぶ TM NETWORK のアイコンでした。






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正直に言って今回のインタビューを行うにあたっては、
自分の中でかなりの葛藤がありました。


というのもこのBlog「TM NETWORK の重箱のスミ!」のコンセプトは
対象者と適切な距離をおき『本人に聞かない』『公式を疑う』というものだからです。

誰もが簡単に(それが本当かはともかく)答えにアクセス出来る時代において、
客観的な資料を元に、自分の頭で推理・妄想するという
『過程を楽しむ』ことこそが自分にとっての譲れない柱でした。

つまり「TM NETWORK の重箱のスミ!」において、重要なのは
「TM NETWORK」ではなく「重箱のスミ!」なのです。
(実際このBlogを立ち上げる2週間前までは
 「東映ヒーロー/監督・脚本家列伝」という内容を予定していました)

これが、このインタビュー企画時のみ
「TM NETWORK の重箱!!」とタイトルを変更した真の理由でもあります。




ではなぜ、禁じ手中の禁じ手である『直接インタビュー』を決意したのか。




この一連のインタビューは昨年の11月初旬に行ったものですが、
実は小泉氏との連絡は昨年春の時点でとれていました。
しかしこのような事情でしたので、直接お話を伺うという考えはありませんでした。

一連のインタビューをお読みいただいた皆様であれば納得いただけると思うのですが、
小泉洋というキーマン抜きで 初期 TM NETWORK の実態を掴むことはできません。
ですので30周年という大きな節目とあれば、さすがに公のインタビューが行われるであろう。
その前に自分がしゃしゃり出て、読者の方が受ける新鮮な驚きに
水をさしてはいけないと考え、ご挨拶程度にとどめておきました。


つまり30周年スタートの時点では、かなり楽観的に考えていたわけです。


ところがいつまでたっても、その様子が伺えません。
そのままズルズルと時が過ぎ、秋も深まる中発売された「小室哲哉ぴあ TK編」のページを
めくって失望・落胆した自分は、結局それを購入せず棚に戻しました。
(これは一連のインタビューラッシュの中で、この本の発売が
 当年終わりの方だったというだけであり、「ぴあ」だからという意味ではありません)




この30周年という大きな区切りをもってしても、小泉氏は公に現れないのか。






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いや、現れないだけならともかく、
何よりTMのメンバーが不自然なほど、誰1人語ろうとしません。


"BEE" presents TM VISION(vol.1)より変な日本語






























ただ注意して見ていると、その影は感じとれます。

しかし、例えば秋に出たキーボードマガジンのインタビュー中
「RAINBOW RAINBOW」について木根氏が
『マニピュレーターが普通の人たちでは買えないような良いシンセサイザーを
 いっぱい持っていたので、それを使って作った』と話していますが、
実態は小泉氏インタビューの通り、『持っていた』のではなく
『その時点では素人同然の者が私財を投じて購入しつづけていた』わけです。

木根氏の発言から受ける印象とは、かなりの隔たりがあります。




自分が先に書いた『本人に聞かない』『公式を疑う』という
コンセプトをとった理由のひとつは、まさにこういうことがあるからです。

背景を知らずに言葉だけ抜き出しても、どうとでもとれてしまう。
なにより怖いのは、その結果なんとなく分かったような気になって、
それ以上考えなくなってしまうことです。
(個人的に「小室哲哉ぴあ TM編」はその手の発言の宝庫でした)






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さらにショックだったのは『小泉氏に触れない TM NETWORK』について、
ファンが違和感を抱かないということです。

それどころか小泉洋という名前を知らない。
知っていても "初期のサポートメンバー" 程度の認識でしかない。

もっともこれはファンに責任はありません。
ある時期より小泉氏の存在は、TM NETWORK の歴史から消されてきたからです。
これは小泉氏のインタビューが存在しないとか、
メンバーが言及しないだけの話ではありません。



お持ちの方は確認していただきたいのですが、PARCOライブが収録された
TM NETWORK 初の映像作品「VISION FESTIVAL」のインナーには
ヘアメイク担当者などのクレジットまできちんとされているのに、
あれだけ深く関わられ、なおかつ映像にも写っている小泉氏がクレジットされていません。




























つまり小泉氏が TM NETWORK を離れる以前から、すでにこの流れはあったわけです。
(「VISION FESTIVAL」発売 1985年8月)




予告編でミツカワは『ここまで表に現れないという事は、
そこに何かしらの事情があるという事は推測できる』と書きましたが、
これは相当、根が深い問題であると今更ながらに思い知りました。






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しかしその『事情』を暴き立てるのが、このBlogの目的ではありません。

今回、僕が行ったインタビューの目的は、
・小泉洋は単なるサポートメンバーではなかった。
・それどころか、作品の核となる部分に関わっていた。
・TM NETWORK は、実質4人で動いていた時期があった。
という事を、まずはネット上に書き残しておくことです。

インタビューをお読みいただけば分るように、この時期については
PARCOライブで初披露された「Quatro」という曲のタイトルが
全てを物語っているでしょう。

この点については、当初の目的を達する事が出来たと自負しております。





しかしこれ以上の事となると、やはりこのような正史に残らない個人ブログではなく、
公式のインタビューとして公のメディアで語っていただきたい。





他のアルバムに比べ、初期の2枚のアルバム+ミニアルバムは
その制作実態がどうもはっきりしません。
いつも中心の欠けたドーナツ状の話ばかり聞かされてきたとミツカワは感じています。

「CHILDHOOD'S END」だけに絞っても、
その後のコメントでは『迷いの時期だった』の一言で片付けられていますが、
実際は当初のコンセプトが二転三転し、

 ・録音したサポートミュージシャンの演奏を全部消去して一から作り直す。
 ・制作の進め方にあたって、小坂プロデューサーとの軋轢
 ・アルバム完成後もキャッチーさに欠けるとレコード会社から判断され、
  別にシングル用の曲を作る事を要求される。

など、次々と腰砕けの状態になり結果的に「作品集」といった形に収まった様子が伺えます。

また、このアルバムが全く売れていないことに動揺した小室氏の脳裏には
"TM NETWORK 以外の選択肢” が浮かぶこともあったようです。



この辺を丹念に取材していけば、作られたストーリーに守られたアイドルではなく、
ドラマティックで酸いも甘いも噛みしめた
アーティスト(Human)としての TM NETWORK を歴史に刻むことが出来るでしょう。



しかし、その大きなチャンスになったかもしれない NHK-BS『MASTER TAPE』では、
当初、『RAINBOW RAINBOWを紐解く番組』との企画案が出されたものの、
小室氏に即、却下されてしまったそうです。






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ミツカワとしては、とにかく小泉洋・小室哲哉・木根尚登・宇都宮隆といった方々に
初期の作品群の制作実態、葛藤、その悪戦苦闘ぶりを公の場で語ってほしい。


今回の小泉氏インタビュー中にも、音や人名など何らかのキーワードがあれば、
とたんにあやふやだった記憶が鮮明に蘇るという場面が多々ありました。

さらに今回は「小室哲哉の旧友としての小泉氏に焦点を絞る」と宣言したように、
作品に関する具体的な作業工程などはあまり深くお聞きしませんでしたが、
やはり音色の話となると、ものすごい反応速度で答えが返ってきました。

この様子を見ていると、インタビュー初回冒頭に書いたように、
一人一人の記憶が曖昧でも皆で話せば確かなことが浮き彫りになってくるだろうと感じます。


そのなかには先に書いた TM NETWORK という枠を越えた貴重な出来事が
(技術的なことだけではなく)まだまだ含まれているはずです。






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ですので、これをお読みいただいているファンの方々も
『ファンであるならばこそ』このような中途半端な採り上げ方で満足されず、
ぜひ本当のことを知りたいと声を挙げていただきたいと思います。


デビュー前の小室氏が、自身で所有していた廉価なシーケンサーで作ったと思われる「INTRODUCTION [ANY TIME]」(TMN GROOVE GEAR 収録)。

この曲における、牧歌的とさえ言えるシンプルなシークエンスに対し、
冒頭から16分音符が雪崩を打つように押し寄せる「1974」を聴けば、
デビュー時における小泉氏の果たした役割の大きさは一聴瞭然です。






ミツカワとしては、
どんな事情があれ『作品にかけた想い』そのものは否定されるべきではないと考えます。






































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最後になりますが、お話を伺うだけでなく自宅で手料理をふるまっていただいた小泉洋氏。

また、資料確認から相談まで付き合ってくれた
・青い惑星の愚か者
・GAUZE
・かっと
各氏に感謝いたします。









さて次回からは、通常の「TM NETWORK の重箱のスミ!」に戻ります。
個人的に慌ただしい時期に入るので、更新が遅れます…と書こうとしましたが、
現状でも十分遅れている(ほんと、ごめん)ので、さして変わらないと思います。

今後とも気長にお付き合い下さい。









2015年2月28日土曜日

祝!30th【小泉洋氏インタビュー / その3】☆ 幼年期の終り



ミツカワです。


さて今回も、このBlogは「TM NETWORK の重箱のスミ!」ではありません。

                    です!

いつもとは体裁が異なりますことを御了承下さい。



昨年末より3回に渡って御送りしてきた
TM NETWORK 30周年記念・特別企画【小泉洋氏インタビュー】

いよいよ今回でひとまずの区切りとさせていただきます。
こちらの冒頭にある『読者の方へのお願い』は
重要な注意事項を含みますので、必ず目を通してください

またここまでのエントリーを読まれていない方は、
より理解を深める為、是非そちらから御覧ください。



なお今回の「Dragon The Festival Tour」に関する項目については、
こちらのエントリーを先に御覧いただくと、
より(胃の痛くなるような)臨場感を味わうことが出来ます。
ぜひ、合わせてお読み下さい。




           では、大変お待たせいたしました。
       本邦初!【小泉洋氏インタビュー】第3回スタートです。
         (文中の注釈はミツカワが付け加えたものです)







♫ C-Dragon Project ~もうひとつの Network 〜


⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ さてセカンドアルバムの話をうかがう前に、ひとつお聞かせください。
     この時期、小泉さんのクレジットには「C-Dragon Project」とありますが、これは?
◯ ああ、それは俺と小室とでやってたユニットみたいなもん。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ え?これ小泉さん個人のものではなかったんですか!
◯ そうだよ。あの頃だと哲っちゃんも TM じゃ稼げないわけでさ、言葉は悪いけど
日銭を稼ぐというか。そこで俺と哲っちゃんとでCMとかアニメの仕事をやってたのが
「C-Dragon Project」なわけ。アニメってあれだよ、主題歌とかじゃなくって、
画面に合わせてジュワーンとかそういうのね。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ へー。なんで "C-Dragon" なんですか?
◯ 哲っちゃん、ドラゴン好きだからさあ(笑)
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯(大笑い)
◯ ほら当時、シードラゴンって流行ってたじゃん。あれから採ったはず。
ただそれだと普通は「C」じゃなくて「Sea」だけど、
あの頃コップに入れてプカプカさせるおもちゃあったじゃん?
あの形(アルファベットのC)から採って C-Dragon だったはず。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ なんだか、えらく単純な話だったんですね(笑)


      (上段「CHILDHOOD'S END」・ 下段「Twinkle Night」より)












♫ CHILDHOOD'S END 〜音に込めた色艶〜


⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ ではセカンドアルバム「CHILDHOOD'S END」の話をお聞かせください。
◯ セカンドは一番、俺の色が出ているアルバムだね。
このあたりが一番、俺の影響がある時期じゃないかな?
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ あ、そうなんですか?!素人目にはファースト(アルバム)の方がピコピコしてて、
     小泉さんの手がける範囲が広いように思ってましたが。
◯ ファーストは実験というか、テクノロジーへの挑戦がメインだったような気がする。
毎日毎日、あんなことは出来るか?こんなことは出来ないか?って。
それはうまくいけば宣伝にも使えるしね。
だからファーストは革新的っていう意味では価値が高いと思っている。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ はい。
◯ だけど一応それはファーストで消化された形で、セカンドを作るってなったときに、
俺なりの思いがあって、1ヶ月ほど一人でヨーロッパ旅行に出かけたんだよ。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ …と言いますと?
◯ 1年目は技術的なこともそうだし、プロとしての足場をつくるという点においても、
とにかく小室も俺もがむしゃらに突っ走っていたわけだ。
だけどどうやらセカンドを作れる、作らせてもらえるという周りの状況が見えて来た時に、
その気持ちの余裕が、当たり前のことなんだけど『いい音楽を作りたい』って方に
向かったんだよね。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ なるほど。
◯ それで俺も当時は若いしバカだからさ(笑)『シンセの限界を試したい』なんて
カッコいいこと考えて、まずは本場のバイオリンとか
いろんな生の楽器の音に触れてこようと思ってヨーロッパ行ってきたの!
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ あ、単なるバカンスじゃなかったんですね?!
◯ で、帰ってきて哲っちゃんと話して、もう任せろ!みたいな。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ へー。よく『TMは3枚目で路線変更をした』と言われてますが、
     ファーストとセカンドでもかなり違いますよね?肌触りというか…。
◯ ファーストがテクニカルな挑戦という側面があったのに対して、
セカンドは "音楽的” だよね。ハートフルというか。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ ファーストでは「1974」のピコピコに代表される、
     これ見よがしのテクノロジーのようなものが、セカンドでは姿を消していますよね。
◯ 相変わらず革新的なことはいっぱいやってるんだけどね。
馴染んでいるというか、より音楽的というか。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ ああ、そうですね。
◯ セカンドで俺がとことんこだわったのが “色気” だったんだよ。
生楽器のもつ色気というか…わかるよね?
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ なまめかしい感じ、ですよね。
◯ そうそう、そういう艶っぽさみたいなものを重視したんだよね。
変な表現だけど "シンセでできた生楽器" というか。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ なるほど。
◯ むこうでバイオリンなんか聴いてみて「うわーこんなにピッチが波打ってるんだ」
とか分って、シンセもあえてピッチをずらすようになったり、ハイハットも微妙にずらして
人間味をだしたり。TM じゃない別の現場では、やってる途中ディレクターに
「大丈夫?そんなことやって」とか「ちゃんとやってよ」とか言われたこともあったよ。
でも出来上がったもの聴かせたらみんな納得して。
結局その「色気のある音」っていうのが、その後の俺の武器になっていくんだよね。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ 個人的な話で恐縮ですが、僕は TM のアルバムでこの「CHILDHOOD'S END」が
     一番好きなんです。だけど、じゃあどの曲が好きなの?と問われても答えられない。
     ただただ全体を包む空気感のようなものが好きだったんですが、 たしかに
     ファーストと比べても “色気” や “艶” という意味では、セカンドは圧倒的ですね。
◯ 圧倒的だよね。



⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ さて、セカンド制作時のインタビューで小室さん、木根さん共に、
   「曲が足りない、曲が書けない」とおっしゃってたんですよ。
     結局、昔作った曲を引っぱり出してきたとか。
◯ うーん、日常的に哲っちゃんと俺とでジュンアンドケイのスタジオ借りて
デモは作ってたはずだけどね。小室から「こんなの作ったんだけど、どう?」って、
いろいろ渡されたこともあったし、30曲くらい入ったデモテープ持ってたのも憶えてるし。
…うーん、その辺の事情はよくわからないな。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ その反面、ライブでは「17 to 19」など、
     新曲をどんどん作って演奏していたわけですが、
     このライブ曲をセカンドに入れるという話はなかったんですか?
◯ うーん、どうだったかなあ、ちょっとそこらへんは憶えてないなあ…。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ そうですか。でも贅沢ですよね、
     ライブ用に何曲も作りながらレコーディングしないって。
◯ うん…いや、責められても困るんだけど…。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ …いやいや責めてません責めてませんって!『贅沢だ』って言ってるんですよ(笑)



⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ そういえば「ELECTRIC PROPHET」は当初、セカンドの柱になる予定だったのが、
     曲が長過ぎることや、アルバム・コンセプトの変更から没になったそうですが、
     レコーディング自体はしたと小室さんがおっしゃっていたんですが…。
◯ それもよく憶えてないけど、デモをレコーディングしたってことじゃないかな?
その時点で長いって判断も出来るし。でも後で『どうしても作品として世に出したい』と
いうことになって、じゃあミニアルバムでってなったんだと思うよ。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ では話が前後しますが、本番(ミニアルバム「TWINKLE NIGHT」)の方は?
◯ 「ELECTRIC PROPHET」はかなり頑張った記憶がある…シンセとか、
…シンセ頑張ってるよね?あれ。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ ええ、頑張ってます。頑張ってますよ!










♫ 愛をそのままに ~音色もそのままに~


⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ さて小泉さんにお話を伺う以上、この曲は避けて通れないんですが、
     アルバムの最後に収録されている「愛をそのままに」という
     木根さんの曲がありましたよね。
◯ ん?
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ イントロの音色で、木根さんがモグワイの…
◯ ああ、あれね!俺はあれでいいって言ったのに、木根は最後になって
ヤダヤダってごねたの。怖い怖い怖い!って。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ ちなみに小泉さんは別にモグワイの声を意識して作られたわけではないんですよね?
◯ うん、ないよ別に。あの音は初めから自分の中にイメージとしてあって、
あれは PPG(前エントリー参照)で作ったんだけど、俺としては凄く素晴らしい音だと
思ってんだけど、木根は怖いって言うのよ。…まあ「グレムリン」流行ってたしねえ(苦笑)




        (注)映画「グレムリン」日本公開1984年12月8日
   なんのことか分らない方はこちらのエントリー中のスキャン記事をお読み下さい。




⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ ちなみにこの曲に限らず、木根さんが自分の曲に対して、
     こうして欲しいってありました?
◯ 無かった。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯(笑)
◯ たぶんブツクサ言ってても、小室と俺とで黙殺?(笑)
で、哲っちゃんが「木根!小泉がこう言ってんだからいいじゃん!」て。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ それ、悪者にされてません?(笑)
◯ まあ、今なら『木根がそうしたいんだったら、そうしたらどう?』って言うんだろうけど、
当時は俺も若かったから『いいじゃん、こっちの方が!』で終わりっ!(笑)



⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ 実は、この曲中に当時から大好きだった音がありまして…これなんですけど。
   (0:44~0:47にかけてセンターで鳴る下降音)しかもこれよく聴くと
     まるで実音より先に、エコーの方が先行して左側で鳴っているように聴こえますね。
◯ まあ、この時はいろんなことやってたよ。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ それはシンセ単体ではなく、エフェクターから部屋鳴りから含めてということですね。
◯ そうだね。もうやりたくないね(笑)
よくあんな面倒くさいこといろいろ考えてさあ…、極限だったと思うよ。






♫ FAIRE LA VISE ~受け継がれるロマンス~


⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ 前年、ちょうど「1974」がシングルカットされた日に、
     大江千里の「ロマンス」という曲が発売されて、これにも関わられてますよね。
◯ あ、それやったなあ。大江の千ちゃんはウチの多摩の実家にも何度か遊びに来てたよ。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ そうなんですか。で、その「ロマンス」のイントロで…なんて言ったらいいんだろう…
     こうブリキをダダダダッと叩いた様な…
◯ ああ、やったやった!あれはカーンと鳴らした音をピッチチェンジャーを使って半音だかに
下げた音出して、それをディレイに突っ込んだんだよ。で、それをまたピッチチェンジャーに
返してやると、どんどんどんどん無限に下がっていくじゃない?
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ ああ、じゃあ元になる実音は最初の "カーン" だけなんですね。
◯ そうだね。それを過剰にループしないようフィードバックの量を巧い具合に調整してやると
ああいう音になるんだよ。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯「FAIRE LA VISE」のイントロ(0:07~0:10)でも似た様な音がしますね。
     こちらの方がずっとクリアで洗練されてますが
◯ ああ、あれもそう。もう当時は思いついたらやってたからねえ(笑)
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ これって一発ネタというか、これだけのためのものですよね?
     この一発ネタのためだけに…
◯ そうそう、それしか使えない(笑)もうこの頃はいろんなこと考えて、
ああやったらどうだろう?こうやったらどうなるんだろう?ってやってたよ。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ そりゃ、時間かかりますよね…そんなことしてたら…。
◯ う~ん、そうだね~。よくやってたねえ~(笑)


    (注)小室氏は、翌年「GORILLA」発売時のインタビューで、
       「I WANT TV」~「Come On Let's Dance」間のSEについて、 
       この音を ”真似てみた” とコメントしている。






♫ 永遠のパスポート 〜逢う度に見つけたい〜


⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ 僕、PARCOライブでの「1974」などのBass音が大好きなんですが、
     この曲のBass音も同じ系統ですよね。この "音色とフレーズのハマり具合" というか
     相乗効果を聴くだけでも、失礼ですが先程(前エントリー)おっしゃた
   『デビューから1年間での成長』というのが伝わってきます。
◯ うん。俺、Bass に関してはその後の仕事でも定評があったのよ。ふくよかな音でありつつ、
歌い手さんそれぞれの声質を邪魔しないように倍音をコントロールしたりとかね。
倍音男って呼ばれてたもん(笑)
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ ば、倍音男(笑)
◯ 膨らみのある暖かい音が好きだったから、SynthBass に関しては DX7 は使わなかった。
DX7 使うと芯は出やすいんだけど、無機質になるような気がしてね。
たしかあの頃は、Oscar のデジタルの部分と OB-8 を混ぜるのが多かったかな。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ Oscar!うわー懐かしい…。

















            Oxford Synthesizer Company【Oscar】
       ぶっとい音に定評のあった、アナログ・デジタル Hybridの名器。
          日本には限られた数しか入ってこなかったそう。
    名器でありながらボディーの各部がゴム製という "変なシンセ" でもありました。





⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ 一昨年の話になるんですが、小室さんがTwitterで、
   『今まで作った音色で一番好きな音色はどれですか?』と尋ねられて、
     自分一人で作ったわけではない、と断ったうえで、
   「永遠のパスポート」間奏のソロ音色をあげていらっしゃったんですが…。
◯ ん?どんなのだっけ?
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ (ミツカワ持参のスマホ用スピーカーを付けたiPodで試聴)
◯ (しみじみと)お、懐かしいなあ。あ、この部分は DX7 だ(一緒に鼻歌を歌う)
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ (早送りして1番の終わりへ)ここからですね。
◯ あ、これか~!Oberheim(OB-8)だな。
……でも『良い』ってほどの音色でもないじゃんねえ?
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ いやいや、作った御本人を目の前にして
   「そうですね」なんて言えるわけないじゃないですか!
     ……でもですよねえ?他に凝った音色はいくらでもあるのに…と思ったんです。
◯ ちゃんとスタジオのでっかいモニターで鳴らすと凝ったことしてるのかな?
でも今聴いてるかぎりじゃ、普通のフレンチホルンの音を OB-8 で作っただけというか…。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ なので音色そのものというより、その時のシチュエーションだとか、
     何か他の理由があるのかな?と考えたんですが。
◯ うーん、どうだろうなあ。そこは俺にはわからないな。


◯ たださ、音楽ってつまるところ “感動” じゃない?
理想論としては、音色があってフレーズがあって、
それを弾いたときに、鳥肌が立ちたいというか…。
それはいつも思っているから、なにかしらのタイミングで
なにかとリンクすると、自分の中で貴重な “響き” になるかもね。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ なるほど。
だから俺がこだわってた "音の色気" っていうのもそこなんだよね。












♫ Dragon The Festival ~Come on Dragon the Festival!~


⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ この年の秋には、いよいよ TM NETWORK 初めての本格ツアー
   「Dragon The Festival Tour」がスタートしましたね。
◯ この時はもう、始まる前から極限だったよ。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ なんとなく予測がついて、聞くのが怖いんですが(笑)どういうことでしょう?
◯ 舞台監督にしろ誰にしろ(パソコンを使ったライブなんて)初めてのことで、
何もわかんないんだよ。そうなると俺に聞いてくるしかないじゃん?
哲っちゃんにしたってパソコンに詳しいわけじゃないから、話してても
「ごめん洋ちゃんさぁ、それ出来るかどうか舞台監督と相談してみてくんない?」てなるし。
(パソコンの)設置場所を何処にするのか?とか、振動はどうだ?電圧は?とか…。
いろんなこと想定して照明だろうが舞台装置だろうが、どの打ち合せにも
俺は出なくちゃいけない。他のメンバーみたいに、自分に関わるところだけじゃないから。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ うわー…。
◯ そのうえ当然、メンバーとの音に関する打ち合せもあるし、
他にもワタルちゃん(ドラム担当の山田亘氏)との同期演奏に関する連携の打ち合せ…、
なんてことやってるうちに結局、全部に首つっこむハメになっちゃってさ。
ほんと寝る暇が無いっていう。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ 当時のメンバー間でも『小泉=いつも寝てない』って認識だったようですね。

























             1985年10月17日 広島公演楽屋にて






⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ ではツアーがスタートしてからの話ですが、この時のことについては僭越ながら、
     この重箱Blogでも書かせていただきました。
◯ 読ませてもらってさあ、ほんと嬉しかったよ。
『ああこいつ、俺の苦労わかってくれてるな』って。

◯ だってあれ、普通の人が受けるプレッシャーじゃないよ!
ばーって何百人もいる観客の前で『全てはあなたのそのパソコン次第ですよ』って。
今の(現代の)じゃなくて、当時のパソコンだからね!
なのに、エラーはだめ、もちろんフリーズもだめですよって、
正直『いや、そんなの俺に言われても』って言いたくもなるよ(笑)
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ うわー、聞いてるこっちまでドキドキしてきたー。
◯ 照明のせいでMIDI周りが飛んじゃうとかさ、何が起こるかわかんない状況で、
そんなのプロもクソもない。いかんともし難い。…でも何かトラブルが起こったら、
事情の分らない人から見たら『小泉さんのパソコンが止まっちゃったみたいよ』ってなるし
『え、俺? 俺のせい?』てさ。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯(笑)
いや、電気周りは俺のせいじゃねーよ!東京電力に言ってくれよって!!(大笑い)
その後はMIDIも含め、どんどん進歩して安定していったけどさ、当時はねえ…。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ ちょうどあの80年代初期から中期って加速度的にテクノロジーが進歩して、
     先月出来なかったことが今月には出来るようになってる、みたいなことが
     連続して起こってましたよね。それだけに今となっては当時の苦労って
     なかなか伝えづらい。聞かされる方も、理屈は分っても体感しづらいでしょうね。



⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ ちなみに一番緊張する瞬間ってどの辺でした?
◯ 暗転になってプレイボタン押す瞬間。タイミングひとつとってもコンサート全体の流れに
かかってくるわけで「今かな?まだかな?…よし、今だっ!」てボタン押しても
『えええ!動かない?!』とかね。まあ幸い、実際にはそんなこと起こらなかったけど…。
でもやっぱりキツいよ、あれは。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ ああ、そうか。トラブル以前に "何も起こらない" って可能性もあったわけですね!
◯ うん、怖いけどね。最後は神頼みだよね。

◯ そういう意味じゃ何度か会ったけど松武さん(注)なんか尊敬するよね。
あの時代、すぐにピッチは狂うは、データーをカセットテープからロードしたりとか。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ それはもう、ミュージシャンとしての尊敬じゃないですよね(笑)
◯ そうそう、『同じ胃が痛い思いをしましたよね、先輩!』ていう(笑)


      (注)4人目のYMOと呼ばれたプログラマー・松武秀樹氏。
         TM NETWORK「GORILLA」にも参加している。
























    TM NETWORK における元祖 "要塞” 小泉ブース 1985年10月1日 札幌公演より







◯ でも本当に冷や汗かいたトラブルは一回だけだったよ。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ それはどういった?
◯ データーが飛んじゃったんだね。演奏中に。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ あ!曲の途中で?!
◯ そう!でも…やっぱり若かったんだね(笑)前もってワタルちゃんに
『何かあっても16小節以内に俺が合わせて復帰させてみせる!』って言ってあったの。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ で、それが実際に起こったと。
◯ 突然、曲の途中で同期が止まっちゃって生演奏だけになって。急にクリックが止まったから
ワタルちゃんも『何かが起きてる…何かが起きてる…』って思いながらドラムを叩いてて。
でもそこでワタルちゃんと目を合わせてて、2番の頭からぴったりポン出しで乗り切ったの。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ へー。
◯ つまり、データーを再度読み込んで、2番の頭まで移動させて
ワタルちゃんのドラムに合わせてマニュアル・スタート!
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ それはもうコンピューターの生演奏ですね!
◯ あとでワタルちゃんと2人で盛り上がったね。
『凄かったねー、目配せで分った?』『分ったよ!』って。



⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ そういえば当時のドラマーだとヘッドフォン(でクリックを聞きながら演奏すること)
     を嫌がる人いましたよね。
◯ だろうね。YMOくらいだよね。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ 山田さんは初めからヘッドフォンに抵抗はなかったんですか?
◯ うん。そこはとてもフレキシブルでワタルちゃん…
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ 
◯ ワタルちゃん、いい奴だし(笑)
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯(笑)




◯ 怖いといえば、マイクスタンドが飛んできたこともあったな。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ ああ、それも聞きたかったんです!たしか名古屋公演でしたっけ?
◯ ウツがマイクスタンド振り回したらすっぽ抜けて、俺のキーボードに当たったらしいよ。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ 小泉さん自身は大丈夫だったんですか?
◯ ああ、俺には当たらなかった。
キーボードも問題なかったから、ライブの最中には気付かなかったんじゃないかな?
あとから、見てたファンの人に聞いて初めて知ったくらいで…。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ そうだったんですか(注)
◯ まあ、ライブなんて何事もありうるからさ。
もうあのときは俺、データーとか音色の呼び出しだとかで余裕無いから…
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ 当時よくおっしゃってた『27秒の壁』ですね(こちらのエントリー参照)




 (注)と、おっしゃっていますが、このエントリー執筆のため資料をあさっていると
    こんな記事が。小泉氏はしっかりと命の危機を察知していらっしゃいました。
























⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ しかし、余裕無いとおっしゃりながら、演奏もされてましたよね?
◯ そうね(笑)ていうかバカだよな、俺!(大笑い)
『同期やってんるんだから勘弁してくれ』って言えばそれで済む話なのに、
「1974」もハモってたし俺、♪~チャラッチャーって。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ え、あのイントロのフレーズを?「1974」って打ち込み的にも山場じゃないですか!
◯ おまけにあのツアーではコーラスも歌ってたはず。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ はい、それは映像に残ってますよ。
◯ おかしいよね。これだけコンピューターで一番大事なところで、データー飛んだら
おしまいのところで、コーラスやって、キーボードも弾くってバカだよね(笑)
なのに『やれる?』って聞かれたら『やれる!』って答えてたんだよね。
他にも音色呼び出すだけじゃなくって、哲っちゃんが弾いてるシンセの音に
リングモジュレーターかけてギュワーンって歪ませたり。



⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ このときは組曲もやりましたよね。組曲「Vampire Hunter D」
◯ やったね。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ あれは打ち込み無しで、小室さん・小泉さん・白田朗さんの3人による
     シンセ・オーケストラ(生演奏)ですよね?
◯ あ、あれはそうだと思う。



⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ 白田さんは純粋にライブのサポートとして、いらっしゃったんですか?
◯ あ、トンジ(注)はそう。哲っちゃんが元々付き合いあったみたいね。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ フレッシュサウンコンテストでも小泉さんと一緒にサポートされてましたよね。
◯ あの時は同期使ってないからね。手(人手)が無いとどうしようもないし。
トンジはとにかく凄いのよ!
だからツアーでも彼がシーケンサー代わりのフレーズを弾いてるの。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ なんちゃってシーケンサーですね。
◯ そうそう、シーケンサーモドキのフレーズを
手弾きでやってくれるってことで来てもらった。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ では白田さんはコンピューターなどテクニカルなことは関与せず、
     純粋なキーボーディストとして参加されていたんですね。
◯ うん。


     (注)白田朗氏の愛称。当時のファンからもそう呼ばれていました。



⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ ちなみにこのツアーでのセットリストで、
     小泉さんとして一服つけるというのはどの辺りだったんでしょう?
◯ やっぱりその「Vampire Hunter D」じゃない?
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ でも演奏はされてるんですよね(笑)
◯ うん(笑)



⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ ツアーが始まって以降も、色々変更はありましたか?
◯ あったよ。哲っちゃんの(ショルダーキーボードによる)ソロのギターみたいな音って、
ツアー後半ではチューブ(真空管アンプ)にしたはず。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ そこらへんのエフェクターも含め、全部小泉さん側でコントロールされてたんですか?
◯ うん。哲っちゃん側でへたに音色を変えちゃうと、MIDIの流れが混乱しかねないからね。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ では、小泉ブースで一括して管理すると。
     この重箱Blogでも以前書かせていただいたんですが、
     それはすべて小室さんの背中を見て、それだけの判断だったんですよね?
◯ うん。仲良かったというより、もう兄弟みたいなもんだったからね。後ろから見てて
なにしたいか、例えば『あ、ここでもっと歪んだ音でソロっぽく弾きたいんだな』
とか分ったし、そしたらこちらでパッと切り替えて…それで何の問題もなかったよ。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ へー!ちなみに例の "27秒" というのは本番の電圧や振動で変動しなかったんですか?
◯ あ、それは大丈夫だった。



⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ このツアーでは短い期間の中で、曲順変更を2回程してますよね。
◯ したね。やっぱり実際やってみると、ここはこうしてもらわないと困るっていうのが、
俺なりにあって。ここはもう少しウツがMCで引っぱってくれないと
(次曲のデーターとサンプラーの音色ロードが)間に合わないとかね。
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ じゃあ舞台監督ではなく、小泉さんの要求だったんですか?
◯ あ、もちろん舞台監督側から演出的な意味もあったろうけど、俺側からも
『ごめん、あそこ(曲順)入れ替えてくれないと無理!』みたいな要望は出したよ。
今の段取りだとギリギリすぎて冷や汗かいたりとかあって『問題ありっ!』みたいな(笑)
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ このときは途中で前後の曲に関係なく、木根さんの短いアコギ・ソロが入るんですが、
     それも場繫ぎですよね?
◯ そうだろうね。もうこのときは音色切り替えだけじゃなくって、哲っちゃんが
ショルダーキーボードに持ちかえる時間とかまで、全部秒単位で計算してやってたしね。



⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ こういうことを同業者の方がみて何か言われませんでしたか?
◯ なにをやっているかが分る人にはね。
その後も突然、他の現場に呼ばれて『小泉君がいればなんとかなると思ったから』なんて
言われたことも何度かあったし。とにかくあの頃の俺は神がかってたよ(笑)
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ 単なる技術屋としてではなく、ということですね。
◯ 包括して、ってことだろうね。










⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ 最後にお聞きしますが、もし今、同じ事やれっていわれたらどうします?
     当時の機材で当時のサウンドを再現!みたいな。
◯ ヤだよっ!!!
まかり間違ってそんなことになったら、どんなに金積まれても逃げるよ俺は(大笑い)
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯(大笑い)
いやだって、あれはおかしいって…。胃は痛くなるしハゲるしさあ…。
俺も若かった。もう二度とやりたくない。勘弁してください(笑)
⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ 今度ハゲたら、おしまいですもんねえ…。
◯ ほんと、そうだよ(しみじみ)








         【小泉洋氏インタビュー / その3】ここまで








別エントリーとして「小泉氏インタビュー・あとがき」を用意させていただきましたので、
引き続き、そちらを御覧ください。






2015年2月1日日曜日

祝!30th【小泉洋氏インタビュー / その2】- あとがきと補足

こちらは【小泉洋氏インタビュー / その2】の補足説明となります。
まずはインタビュー本文から御読み下さい。

・祝!30th【小泉洋氏インタビュー / その2】☆ QUATRO 〜 4人のNETWORK










♫ 覚悟 ~ アレもコレもソレもドレも全部!


自腹を切って高級機材を買いあさる。

プロであるなら商売道具ですので、先を見越して購入していくと言うのは当然でしょう。
またプロでなくても、マニピュレーターを目指している人であれば、
少しづつ機材を揃えていくということもあるでしょう。



しかし元々ギタリストであった小泉氏には、TM のレコーディングに入るまで、
マニピュレーターになろうと言う考えは全く無かったわけです。

またレコーディングに入る前ですのでプロですらなく、
先の展望があったわけでもありません。
事実、今回お話しくださったように、わずか3日でクビになった可能性すらあったのです。

そしてなにより、現在とはコンピューター含め、機材の価格が段違いです。



その状況下で最大時1500万円を超える借金をしながら、
次から次へと、数百万単位の機材を買い揃えていたのですから驚きです。
前回のお話で「チャンスとあれば、ひとまずギターを置いてでも全力で取りに行く」
と語っていらっしゃったその覚悟が、
単なるポーズではなかったことが、ひしひしと伝わってきます。 



ちなみに小室氏は1986年、
「FANKS DYNA☆MIX Tour」のパンフレットで、次のように述べています。
『自分の手に追えなくなってきてね、極端に高いんですよ、楽器が。
 それで、ちょうどマニュピレイター(原文ママ)という人たちも出てきたんで、
 そういう人たちに頼ったりとか。自分で買うのはあきらめてね。』



皆さんも今回のインタビューをお読みになった後は、
今まで見慣れてきた当時の写真や映像が、
また違った意味合いで見えるのではないでしょうか。

















































なお80年代、マニピュレーター時代の小泉氏は新宿のイシバシ楽器と懇意であったそうです。
そのため同店には常に、小泉氏のために Emulator Ⅱ の代替機が用意されていたそう!

さらにあまりにこの店で、同じ担当の人から高級機材をポンポン購入していたせいで、
この担当者は本社へ栄転されたそうです。
ある日店に行ったら、なじみの担当者が居なくなっていて、
その理由を聞き、唖然としたとのことでした。









♫ 魔の3日間 〜 TM NETWORK は初めから『QUIT』だった!!〜


この一連のインタビューは小泉氏の許可をいただいた上で、
時系列順・テーマ順に整え直しているのですが、
実際は、お宅に伺って開口一番出てきたのがこのエピソードでした。
30年経った今でも、決して忘れられないそうです。


その経緯をもう一度、なるべく簡単にお伝えします。
(単純化するため、例外等は一切考えないこととします。ご了承ください)


まず TM のような "打ち込み" と "生演奏" の混じる曲の場合、
コンピューターとレコーダーをシンクロさせなくてはなりません。
それぞれの役割分担があるからです。(図参照)

































この2つをシンクロさせる場合、主従関係は
[コンピューター] → [レコーダー] となります。

人間の演奏にコンピューターは自動で合わせてくれないので、
人間側(ギタリストやドラマーなど)が
コンピューターのテンポに合わせて演奏するわけです。



そこで下準備として、これからレコーディングする曲のテンポを設定したコンピューターから
『タイムコード』という信号を出力し、レコーダーに曲の長さ分、録音(記録)します。

こうすれば次からはレコーダーのスタートボタンを押すだけで、
自動的にコンピューターが追随するようになります。

ここだけ見ると [レコーダー] → [コンピューター] のように見えますが、
実際は、レコーダーに記録したコンピューターのタイムコードに、
コンピュータが従っているに過ぎません。



つまり『録音した自分の掛け声(タイムコード)』に合わせて
『自分が踊っている』だけです。



これが本文に出てくる、当時のスタンダード(旧来のやり方)です。
この当時、音楽用コンピューターは Roland MC-4 という機種が標準的に使われていました。
上記のやり方ですと MC-4 の掛け声に合わせ、MC-4 を動かしていたわけです。







ところが小泉氏が「RAINBOW RAINBOW」レコーディング時に要求されたのは
MC-4 の掛け声に合わせ、パソコンを動かすと言う難題でした。
いわば『他人の掛け声』に合わせて『パソコンを動かす』わけです。



本文でミツカワが指摘しているように、この方法に本来の意味はありません。

その後の作業に MC-4 を使うから MC-4 の掛け声を入れておくのであって、
その後の作業に MC-4 を使わないのに MC-4 の掛け声を入れておく必要はありません。

これはつまり小室氏や小泉氏が主張した、パソコン方式が失敗したとき、
MC-4 を使った旧来の方法に路線変更できるようにするための『保険』です。



なんとなく非生産的な香りがしますが、
ただ、このような前例の無い「パソコンを使用したレコーディング」を、
とりあえずという形ではあれ、トライさせてくれたのは、
やはり、当時の Epic Sony が若い会社だったからかもしれません。

会社によっては一笑に付されていた可能性もあるでしょう。










♫ 狂ったリズムのウラで


さて前回、予告で『唯一タイミングが合わなかったものがあった』と表現したのが、
このシンク・ボックスでした。

シンク・ボックスと言うのは以前こちらでも "シンクロナイザー" として取り上げましたが、
複数の機材のテンポを司る、指揮者のようなものだとお考え下さい。
これがないと指揮者のいないオーケストラ同然、
各楽器が好き勝手バラバラに鳴って “音楽” になりません。



そのシンク・ボックスのスタンダード Roland SBX-80 は、1984年には既に発売されており、
今までミツカワは、それが TM NETWORK のデビュー年と重なるため、
深く考えていませんでした。





























しかし今回インタビューを伺って、再度 SBX-80 の発売時期を調べたのですが、
当時のカタログや広告などから推測するに、
どうも発売されたのは、1984年の早くても初夏から秋ごろのようです。
「RAINBOW RAINBOW」のレコーディングは、
同年の2月初旬には終わっていますので、全然間に合っていません。



そう考えると確かに、この時点でパソコンを使った同期レコーディングをしたと言う事は、
世界的にみても、かなりレアなケースだった事は確かでしょう。



と同時に、この無茶な計画に正面切って突っ込んで行けたのも、
小泉氏がそれまでアマチュアだったため『プロのレコーディングのお作法』を
把握していなかったから…という面も伺えて興味深いところです。



もしこの時、小室氏がレコード会社任せでベテランのオペレーターを雇っていれば
「ピコピコさせたいなら、そんな無茶なことをせず、
 シーケンサー専用機を使えばいいじゃない」と言う "大人の意見" に抗えなかったでしょう。

小泉氏自身も「最初の段階で俺をクビにして、ベテランの人を連れてくるという考えも
(レコード会社としては)あったかもね。でもその場合、パソコンでは無くなっちゃうよね。
そんなこと誰もやってなかったんだから」と語っておられました。



しかし、そうなれば「パソコンを使ったレコーディング、ライブ」という、
小室氏の野心は削がれ、ブレイクに多大な貢献をした「パソコンを駆使したグループ」という
TM NETWORK のイメージ戦略は生まれていなかったかもしれません。

「Self Control」~「Get Wild」の時期のTV出演で、うずたかく積まれた機材の上に
“飾られた” パソコンを背に、歌い、演奏する姿にハマったファンの方は多いはずです。



そう考えると、TM NETWORK が80年代に貫いた
パソコンを前に打ち出したイメージ戦略は、前回の "タイミング” の話と合わせ、
この時期の(偶然も含めた)様々な要素が重なって生み出された、
とも捉えられるのではないでしょうか。










♫ 2台の PPG WAVE


御本人は1台しか存在していないと仰っていましたが、PARCOライブのビデオを見ると、
木根ブースには PPG WAVE 2.2 、小室ブースには同 2.3 が置かれており、
お話の内容と一致しません。

調べてみると確かに小泉氏のおっしゃるように、当時 2.2 の基盤を交換するサービスが存在し、
これによりMIDI端子を付けることが可能ではあったのですが、
これと 2.3 はまた別個のものであり、当時次から次へと機材を購入されてされていたため、
小泉氏の記憶が混同されているのではないでしょうか。

PARCOライブでのもう1台はリースだった可能性もありますが、
2ndアルバムの機材クレジットの件も合わせ考えると、
ミツカワとしては、PARCOライブの時点で
既に2台目の PPG(2.3)を購入されていたのではないかと考えます。



…と思ったのですが、この記事をエントリーする直前に気付きました。
札幌公演では木根ブースから PPG が消えてる!(ついでに Roland JX-8P も消えてる?)
やっぱりPARCOは撮影があるから見栄を張ったのか?!


うーむ、これは混沌としてきました。
ひきつづき重箱のスミを突いてまいります!



なお1984年6月に渋谷 live inで行われたデビューライブや、この時期のTV出演には
木根ブースに YAMAHA GS2 という TM にしては珍しいキーボードが置かれていましたが、
それ以降は全く見あたりません。これは MIDI にも CV方式 にも対応していないため、
「RAINBOW RAINBOW」のレコーディングには使われていないと思われます。
ひょっとすると木根氏の私物だったのかもしれません。


































♫ 消えた Prophet-5


これもミツカワにとって当時から謎だったのですが、
アナログシンセの代名詞といってもいいほどの名器、Prophet-5 が
TM NETWORK の現場では、なぜか影が薄い。

小室氏はたびたびセミプロ時代の思い出として、
YMOのプログラマー・松武秀樹氏と現場で一緒になった際、
松武氏が持ち込んだ Prophet-5 を触らせてもらうことができて感激した、と述べています。

つまり小室氏にとっても、当然のごとく憧れのシンセであったはず…なのにです。



同じ会社の製品としてはこの時期、小室氏が使っていた廉価版の Prophet-600 、
3rdアルバム「GORILLA」以降は、オペレーター迫田至氏の持ち込んだ
Prophet-T8 , Pro-One が盛んに使われるものの、当の Prophet-5 となるとやはり影が薄い。
その後のライブツアーなどの機材表を見ても Prophet-5 は見当たりません。

せいぜいサポートの白田朗氏が「FANKS DYNA☆MIX Tour」(1986年)で、
同じくサポートの浅倉大介氏が「DOUBLE-DECADE」の 武道館公演(2004年)
に持ち込んでいるくらいでしょうか。



そんな中、はっきりと Prophet-5 が映っている貴重な映像があります。
それがデビュー曲「金曜日のライオン」のプロモーションビデオです。























       (ちなみに木根氏の正面には、すでに OB-8 が置かれている)





この30年以上、ミツカワはてっきり撮影用に用意した機材だと思っていたのですが、
今回の小泉氏の話から推測すると、これも氏の所有機材だったわけです。
「RAINBOW RAINBOW」のレコーディングで使用された後、
このPVを最後にお役御免になったと思われます。

なおインタビュー中、Prophet-5 の代わりに購入したとおっしゃっている、
Oberheim OB-8 は1984年後半以降、レコーディングにライブに大活躍!
近年の小室氏の作品にも最新機材の中に混じって、この OB-8 が使用されています。























       (「Dragon The Festival tour」より。上段/DX7 下段/OB-8)









♫ もう1人の小室哲哉・もう1人の小泉洋


今回のインタビュー内容で、ミツカワが一番驚いたのがここです。

一時期(現在も?)小室哲哉の典型的なイメージともなった、
ひたすら同音を連打するかのようなメロディーライン。
その、たたみかけるようなノリは一度ハマると一種の中毒性すら感じさせます。

逆に80年代には、一歩間違えると単調極まりなく聴こえるコレを指して、
『念仏』だとか『モールス信号』などと揶揄されることもありました。

それほど典型的なイメージとなっていたにもかかわらず、
ミツカワは今迄それを "小室哲哉の個性” だとか ”クセ” だとかの一言で片付け、
それ以上の考察を試みたことは一度もありませんでした。
せいぜい、洋楽(特にハードロック)の影響くらいに考えていました。

しかし小泉氏が教えてくださったように、
このメロディーの組み立て方も、小室氏の長年の研究の成果だとすると、
驚きというより一種の戦慄のようなものを感じました。




戦慄といえば、インタビュー中にこんなやりとりがありました。

⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯⎯ DX7 も発売直後に購入されたようですが、
     そのオペレーションに戸惑われませんでしたか?
◯ ん?いや、そんなことなかったよ。
なんかちょこちょこ触ってたら、すぐ出来るようになっちゃった。



YAMAHAのDXシリーズは『FM音源』という、
当時主流だったアナログシンセとは全く違う方式を採用していました。

にもかかわらず、それまでのシンセと比べ、ツマミやスライダーなどが極端に少なく、
液晶画面も小さかったため、音作りはかなり難易度が高いものでした。
そのため "出来合いの音色を別売する” という、新しい商売が生まれたほどです。

そこでこのような質問をしたわけですが、その答えを聞いてもこの時点では
「あのDXを初体験で使いこなすというのは、さすが技術に強い人は凄いな」
程度にしか捉えていませんでした。



ところが数時間後、雑談中に小泉氏の方からふと、こんな話を打ち明けられました。

『俺ね、最近改めなきゃいけないなと思ってることがあるんだ。
 昔からさ、努力とかを表に見せるのって格好悪いと思ってたんだよ。
 そういうのは人に見せないところでやって、
 表ではサラっとやってみせるっていうのが美学というか、かっこいいと思ってたんだよね』

『だけどさ、少なくとも若者に対してはそれはよくないんじゃないか?と思い始めたんだ。
 というのは、そういう態度をとっているのを若い奴から見ると
「小泉さんは才能があるから出来るんですね。それに比べて私は才能がないからダメなんだ」
 ていう風に捉えちゃうみたいなんだよ』

『違う!そうじゃないんだ!見えないところで必死に努力してるんだ!ってことを、
 ちゃんと伝えていかなくちゃダメだなって…。
 さっきの DX7 の話もね、予約して発売日に購入してさ、新宿から多摩の実家に持って帰る
 タクシーの中で、分厚いマニュアルをもう首っ引きで読んでたよ。
 そうやって必死で食らいついて食らいついて、やっと使えるようになったんだよね』



皆さんは、この「人前では努力を見せない」という美学を、
小室氏が何度も語ってきたのをお聞きになったことがあるはずです。



今回、御宅で話を伺うこと6時間。
その最中、ミツカワは自分が向かい合っている相手が誰なのか、
ふと分らなくなる瞬間が何度もありました。

というのも音楽性だけではなく、表現の仕方、嗜好性、美学などが、
まるで小室哲哉氏とそっくりだからです。
(ちなみに御宅の時計からは「展覧会の絵」「Jupiter」などが一時間毎に流れてきました)

また小室氏の側にも、当時の発言からは小泉氏の表現の受け売りがみられました。

これは、どちらが一方に影響を与えていたのではなく、
お互い一緒に過ごした長い時間の中で、ある意味『感性のチキンレース』というような感じで
共有、先鋭化していったものではないかと感じました。









♫ PARCOとテープと記憶の彼方


今回のインタビューで小泉氏は、PARCOライブに限らず
「自分が在籍中はテープは一切使っていない。
 そこは俺も哲っちゃんもプライド持ってやっていた」と語ってくださいました。



この重箱Blogでは以前、
"PARCOライブのバックトラックは、テープが使われていたのではないか?“ と考察しました。

そこでここはもう少し詳しく伺って、記事の訂正、
場合によってはその場で土下座して謝罪しようとも考えたのですが、小泉氏曰く、
「いや、その思いを持って日々やっていたのは間違いないんだよ。それは絶対そうなんだけど
 じゃあ本番はどうだったのか?って言われると憶えてないんだよね(苦笑)」とのこと。



御本人によると、この重箱Blogを見つけた後輩の方からの連絡で、
昨年の春には、PARCOライブの記事をお読みくださっていたそうです。
(恐縮です…いやほんとに恐縮です)

そこで後輩の方にも「俺、当時こんなことやったとか、こういう風にしたとか言ってた?」
と聞いてくださったそうなのですが、後輩の方も含めもう記憶にないそう。
御本人曰く、特に1年目は日々技術革新との戦いで毎日情報が更新されるため、
今となっては一つ一つを思い出すのが難しそうです。





さて、この件で以前のエントリー以降、ミツカワが気付いたことを少し加えておきます。

このライブは1984年12月に、渋谷、札幌、年をまたいで
翌年2月に広島(位置付けは違うが先2つと同内容)と行われたのですが、
3回とも小室氏による『TM NETWORK!』という掛け声から始まっており、
この声の調子、エフェクトのかかり方が全く同じです。

よって事前収録したものを流していると思われますが、
この当時まだ TM に Emulator Ⅱ(サンプラー)は導入されていません。
小泉氏は Mirage(別会社のサンプラー)も所有されていたとのことですが、
これもまだ発売前のはずですし、サンプリング時間から考えても、
この掛け声がテープのシンクだった可能性があるのではと考えられます。



またPARCOライブの翌年、1985年のゴールデンウィークに
NHKラジオで TM NETWORK のスタジオライブが放送されました。
この時のバックトラックは新曲である「ACCIDENT」「DRAGON THE FESTIVAL」を除き、
PARCOライブとかなり似ているのですが、番組中のインタビューで小室氏は
「コンピューターとテープをシンクロさせている」と述べています。
(もちろんこれは、この番組における新たな試行だった可能性もあります)



さらに卓袱台返しとして
"ビデオ化される際、大幅にオーバーダビング・差し替えが行われた”
という可能性もあります。



どちらにしても鍵を握る小泉氏の記憶が曖昧な以上、どれが正解かは籔の中です。
まだまだ、重箱道を極める旅路は遠そうです。












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  [ ここだけ『重箱のスミ!』~名誉挽回の巻~ ]






それはたこ焼きを完食したミツカワが、そろそろおいとましようと腰を浮かした時でした。
突然 そうだ!と、小泉氏。


『重箱ブログ見せてもらって驚いたんだけどさあ、
   俺が 10円ハゲになった って書いてあったじゃん!

 
 もう驚いてさあ…、なんでこいつ

  「この隠された事実」「隠された真実」
     を知っているんだって!?


           …あれはどうして知ってたの?』





「いや、あれは当時からメンバーがネタにしてましたよ。
   木根さんなんか本にまで書いてましたもん」





            『…あ?、そうなの』
               「ええ」
                『…』






「ちなみにそれ、どの辺でした?」
『(ニコニコしながら後頭部を指差す)ここ!』(図参照)






『病院通いました!』

「え、そんなひどかったんですか?!」
『うん、赤外線だか紫外線だっけ?あてて…、
 で、治りました!(ニッコリ)』



「でも、そのストレスの原因は日々襲ってくるわけじゃないですか。
 そんな中でどうやって…

     って俺、こんな話を真剣に聞いて
            どうするってんだ…」


『多分レコーディングが終わって一区切りついた時に
 (治療に)行ったんだと思うよ。一安心ていうかさ』
それって労災ですよね。それは出してほしいなぁ手当を」





『気がついたのは、伊東さんなんだよ』
「あ、自分じゃなかったんですか?」

『後頭部だからね。
 伊東さんはいつもスタジオで俺の後ろに座ってたから気づいたんだよ。

  「おい小泉!お前禿げてっぞ」って。

 俺も思わず「え、ウソっ?」って触ったら確かに肌触りが違ってさ
                  「ヤベーっ」みたいな(笑)』


「でもステージに立たなくちゃいけない時ありますよね?」
『髪のばしてたから、ぱっと見はわかんないんだよ。伊東さんは気づいたけどね。
 それなのにブログに書かれててさあ、
 なんでそんなこと知ってるんだ?!こいつ
                             って驚いたんだよ』







  「いや、けっこう
    TMファンはみんな知ってる と思いますよ」








『(力なく)ああ……。じゃあ、今はもう治ったからって書いておいてっ!』
「わかりましたっ!」
『だっていまだに禿てると思われると、ヤじゃない!?』



「はい、毛根には非常に負担のかかる仕事
                       だったと書いておきます」






   『いや、あの当時のアレは誰だっていろんな形で出るよ…ストレス』






「でしょうね。というか 髪ですんで、まだよかった ですよね。
                  下手したら胃とかイっちゃってますよね」

『だよね…。自分としては根性あると思ってたけど、
 あの時は「やっぱさすがに俺、キてたんだなぁ」って思ったよ。
 …だってあの状況だもん…』




『逆に言えば、
 あの状況乗り越えたって思えば
   なんだってできるよ!!
 嫌な上司がいるとか、そんなのいくらだって我慢できるよ!
 そんなの屁でもねえじゃないか!って言いたくなるよ』

「こちらは相手しなくちゃいけないのが、会話の出来ない相手ですもんね」

『だって一手間違えたら、ライブでもそうだけど全て俺の責任だもの。
   もう冷や汗とかいうレベルじゃなくて、グシャグシャだよね。
     借金も抱えちゃってさあ、何とかなったからいいようなものの…』





「いやー正直言って、聞いてて楽しいの半分、辛いの半分と言う感じで、
 ある意味、いちばん貴重な話 を聞かせてもらいました」

『書いといてね!治ったって!』
「お任せ下さい!」








       というわけで、皆さん!

    小泉洋氏が「RAINBOW RAINBOW」の
     レコーディングで発症した10円ハゲは、
       見事、完治しております!

   可及的速やかに情報のアップデート・拡散を願います









小泉さーん!ちゃんと名誉挽回しましたよー!

不肖、ミツカワ。
いままでの人生で、初めて人様のお役に立てたような気がしております。